二十の私はもういない

 久しぶりに、坂口安吾の『風と光と二十の私と』を開いた。初めて読んだのは20歳のときで、確かTwitter坂口安吾botに紹介されたどこかの一節に惹かれて本を手にしたのだったと思う。安吾の文章を読むのはその時がはじめてで、あるときは他者に寄り添い、またある時は突き放したような態度を取る彼の文体は鮮烈に印象に残るものだった、はずだった。

 ところが、数年経ってから再び読み返してみると、どうしてもはじめて読んだときのことが思い出せない。30ページに満たないこの短編をそもそも読破したのかさえも危ぶまれるほどに、内容も、当時抱いたはずの感想も、全く思い出せなかったのだ。安吾の20歳を書いたこの短編を、それと同じ20歳のときに、確かに読んだはずだった。だから私は今日、たぶんはじめて読んだ時もそうであったように、全てを見通したような安吾の文体を新鮮な驚きを以って迎えたし、いずれこのような文章を書いてみたいとも思ったのであった。

 ただ、それと同時に私は苛立ちを覚えずにはいられなかった。たった数年前に読んで感銘を受けたはずの文章に対して、なぜそのときの記憶を蘇らせることができないのか。きっと今こうして考えていることも、数年経てば思い出すことはできなくなるのかもしれない。私は成人式のことはよく覚えているが、20歳の頃見えた世界を想起することはもはやできなくなってしまったし、今見える世界は、そう遠くない未来、ちっとも気がつかないうちに全く別のものへとすげ替えられてしまうのだろう。その時々の考えをブログや日記などに書き留めておくことはそれに対する抵抗になるかもしれないが、その抵抗に何か意味があるのかと問われると、答えに窮してしまう。

彷徨う夢をよく見るという話

 夢を見た。私は山あいの小さな浜を見下ろす小高い丘の上にいた。眼下に見えるのは漁村だろうか、海と山に囲まれた狭い浜には、古びた家々が所狭しと並んでいた。どんな人々が暮らしているのか興味を抱いたので、私は丘を下りてみることにした。坂を下る途中、黄色い帽子を被った小学生たちとすれ違った。「こんにちは」と声をかけると、彼らも威勢のいい声で「こんにちはあ」と返し、そのまま坂を駆け上がっていった。牧歌的という言葉を漁村に対して使うことができるのかどうかわからないが、私はきっと漁村には牧歌的とでもいうべき日常があるのではないかという期待を抱いていた。さらに下って行くと、だんだん海が見えなくなり、さっき見下ろしていた町並みが目の前に現れた。家はどれも木造で、都会に住む私には風情を感じさせるものだった。海辺の方にある家などは、1階部分を海に口を開けて造られていて、その中を覗くと小舟が置いてあった。どうやら舟屋と呼ばれるものらしかった。お腹がすいたので食堂を探したが、見当たらなかった。私はしばらく気の向くままに磯の匂いや波の音に耳を傾けることにした。少なくとも私にとっては、この漁村は静かな時間がゆっくりと流れる心地のよい場所だった。

 不意に体が揺れた。地震かと思ったが、目を開けるとそこはいつも乗る電車の終着駅だった。私は寝過ごしてしまい、駅員に起こされていたのだ。うっかり新年会で飲み過ぎてしまった。終電に近い電車だったため、最寄りの駅へと折り返す電車はもうなかった。仕方がないので駅を出てネットカフェか安いホテルを探そうと思ったが、スマホで検索してみても要領を得なかったので、とりあえず歩いてみることにした。それほどの都会ではないが、既に明かりの消えた鉄骨のビルが並ぶ駅前はとてつもなく寂しい場所のように感じられた。それはさっきまでの夢の余韻のせいに違いなかった。しばらく彷徨ったが、一向に休めそうな場所は見当たらなかった。世界にひとりぼっちでいるような気分だった。

 そこで再び場面が変わった。日は高く昇り、私はアパートのベッドの中にいた。すべては夢だったと気がついて安堵したが、ひとりでいることに変わりはなかった。

崇められる肉

 Twitterにきわどい写真をアップする女の子と、彼女を取り囲むフォロワーたちを観察するのが好きだ。いうなれば彼女は公園でパンをちぎってなげる少女で、フォロワーたちはそれに群がってくるハトだ。暇な私はその様子を少し離れたベンチから眺めている。ぼんやりと眺めていると、より多くのハトを集めるためにはいくつかのコツがあるのだということがわかってくる。例えばハトが好むパンを持って来たりだとか、ハトの注意を引くようにそれを投げるだとか、だいたいそんな具合だ。ただ、彼女がどうやってそのコツを身に着けているのかということは、毎日眺めていてもなかなかわからないし、何か天性のものがあるのかもしれない。この点については日を改めて考えよう。

 言うまでもなく、パンとは肉のメタファーだ。すでに聖なる存在であったキリストがパンを自らのからだに移したのとはやや異なり、彼女は自らのからだを写してアップするというその行為自体によって神格化される。そしてフォロワーたちは、彼女を崇めながらそれを拝領する。その先にあるのは、彼女の存在が無限に肯定された世界だ。その日あったことを報告すればみんなが面白いと言ってくれるし、クッキーでも焼こうものなら、彼女はまち一番の洋菓子屋さんのパティシエになる。誰しもそんな経験を一度はしてみたいと思うだろう。そうなるための手段としてきわどい写真を撮り続けることを下品だと思う人も少なくないだろうが、私はそれを非難するつもりは毛頭ない。それも彼女たちが自己肯定感を高めるための生存戦略だ。

 だが、ひとつ確認しておかなければならないのは、あくまでそれは虚構だということだ。ある少女は、フォロワーとの会話の中で「○○くんは性欲とかぜんぜんなさそうだよね」と言った。そんなはずがあるわけはない。彼が少女をフォローしているのは、少女が日がな切り売りする彼女自身のからだを消費したいと思うからに他ならないはずだ。彼は下心を隠して少女に近づこうとしているに過ぎない。ほかにもそういう男はたくさんいると思うが、たまたま彼がそれに成功したというだけの話だ。当然、少女のほうだってそんなことは百も承知で、互いに了解したうえでコミュニケーションを楽しんでいるのだから、そこにはどうしても空虚さがつきまとう。

ロマンチストでなければ生きている意味がない

「ロマンチストでなければ生きている意味がない」

 ふと頭の中にこんなフレーズが浮かんできたことがあった。突然思い浮かんだわりにはなかなか気に入ったので、ときどき思い出してぼそっとつぶやくこともある。ロマンチックというのはいい言葉だと思う。理由はふたつある。ひとつめは、ロマンチックとは行為とは関係なく心のありようを指すからだ。週末に何もする気が起きずに1日中ベッドの中で空想の世界に浸ったとしたら、たぶん日が暮れてからそれを後悔するだろう。でも、あれが欲しいだとか、誰と結婚したい、将来はどこに住みたいとか、そういう空想に時間を費やすことは退屈な日々を無事に過ごすためには必要なことで、その時間を「ロマンチックに生きる」ための時間だと納得してしまえば、なんだか悪くないような気がしてくる。しかもさらによいことに、その空想の中身を他人に理解してもらう必要などは全くないのだ。もうひとつは、ロマンチックというのはいつだってどこかへ向かうための途上にあるからだ。ロマンチックが現実のものになることは決してない。何かを手に入れれば別のものが欲しくなるし、自分のスキルがアップすればさらに先を目指すようになる。それはべつに欲張りになるわけではなくて、ただいつでも道の途中にいるというだけのことだ。だからひたすら追い求めてもいいし、疲れてしまって途中で立ち止まったってなんということはない。ずっと道の途中なのだから。

 こんな風に、私はロマンチックという言葉をずいぶんと自分に都合のいいように解釈している。つまるところ、私にとってのロマンチックとは、理解されない思考や情けない行動を曖昧なまま肯定するためのよすがのようなものなのだ。実際のところ、ロマンチックよりももっとよい言葉が代わりにあるのかもしれないが、今のところは思いついていない。ただひとつ言えることは、曖昧な肯定は私が無味乾燥な日々を継続することに間違いなく役に立っているし、それができなくなったとしたら、私は生きることを楽しめなくなる。