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東京

 東京に引っ越した。郊外の町に住んで、そこから毎朝電車に乗って会社に向かう生活が始まった。朝は6時に起きて、まず作り置きしておいたおかずを弁当箱に詰め、写真を1枚撮る。そしてそれからそれ以外の雑多な準備を済ませ、7時が過ぎたころに家を出る。この時間に出発すれば電車には座れる。都心に近づくにつれ、車内は徐々に息苦しくなってくる。もうこれ以上乗りきれないのではないかと思ったころ、目的地の駅にたどり着く。この駅はおよそどの時間帯でも、浮かない顔をした人々で溢れかえっているから、私はあまり好きではないし、おそらく多くの人がそう感じているのだと思う。日が暮れるころ、今度は朝とは真逆の方向に同じルートを辿って、ふたたび郊外の町まで帰る。それを5回繰り返したら、1週間が終わる。

 このあとに続く段落を何度も書きなおしては消した。日常に色彩がないということ、生活スタイルが変わったこと、学生時代のほうが満ち足りていたと甘えた気持ちになってしまうこと、今住んでいる町は殺風景だということ、どのトピックも大した意味などなかった。ただ、生活に色彩が欲しいと感じていることはおそらく本当で、緑色に相当するものがお弁当をつくることで、桃色に相当していた桜は既に散ってしまったから、ほかの色を探さなくては、と思う。

町に別れを告げるのが怖い

  6年間通った大学を卒業して、今住んでいる町からも引っ越すことになった。高校を出たてでこの町にやって来たときには考えもしなかったが、今はここを去ることが寂しくて仕方がない。

 大学生活はそれなりに楽しいものだった。学年が若いうちは、夜な夜な友人たちと延々非生産的なことを語り合って時間を溶かした。そのうちそこに酒も加わるようになり、何度か苦い思い出も経験した。人生の目的地がどこにあるのかてんで検討もつかなかった私たちは、やはり目的地がわからないまま闇雲に自転車で走ったりもした。キャンパスは都会と田舎が混在したような郊外にあったから、大学を抜ければだだっ広い田園地帯が広がっていた。私たちはそこで景色のよい場所を探したり、少し離れたおいしいラーメン屋まで遠征したりした。新しいショッピングモールができると、誰よりもはやくそこを訪れようとした。古い商店街ではずっとこの町に暮らしてきた人々とも親しくなった。大学での講義はその多くが期待に反して退屈なものだったが、この町で暮らすのに退屈だと思ったことはなかった。そんな町を離れるのだから、やはり後ろ髪を引かれる思いを隠し切れない。

 同じ時期に入学した友人たちのほとんどは、私よりも早くここを離れ、すでに東京やそれぞれの地元で暮らしている。一方で私は大学に残って研究を続けることを選んだから、夜が明けるまで遊び歩くなんてことはもうなくなってしまった。だが困ったことに、場所と記憶は分かちがたく結びつくものだ。かつて友人が住んでいた場所や、はじめて付き合った人とよく通った店などを訪れると、今でも当時のことを思い起こさずにはいられない。初めて親元を離れひとりで暮らしたのも、初めて異性と夜を明かしたのも、初めて酒を飲んだのも、初めて研究というものをしたのも、すべてこの町だった。今では至るところに私や君や友人たちの思い出が笑っているから、ずいぶん住みにくい町だとも思うし、その反対にこの上なく居心地のよい町だとも思う。大事な記憶と結びついた場所から離れたくないのは、ここから離れることが、同時にそんな思い出を放棄することになりかねないのではないかと思ってしまって、そうなることがとても怖いからだ。

ひなびていた

 温泉に行きたいという気持ちが、他の全ての行為をつつがなく行おうという気持ちよりも上回ってしまった。ここ最近はあちこちを移動していたのだが、風呂に関してはあまり恵まれてこなかったのだ。湧き上がってきたこういう気持ちは実際に温泉に行かないかぎり静まることはないから、すぐに時間を作って電車に飛び乗った。本当なら温泉宿に泊まってゆっくりと羽根を伸ばしたいところだが、そこまでの金と時間を持ちあわせていたわけではなかったので、日帰りで向かうことにした。

 ホームで待っていた温泉行きの電車は2両編成だった。むかし都心を走っていた電車を改造してこしらえたものらしかったが、今ではすっかり田園風景に馴染んでいるように見えた。乗客もまばらな昼下がりの電車はコトコトと音を立てて走った。私は持ってきた文庫本を広げていたが、いつの間にか舟を漕いでいたようで、目が覚めたのはもうすぐ終点というところだった。始発駅も山の端なら、終着駅も山の端だった。電車を降りると送迎バスが待っていて、ほかの乗客は皆吸い込まれていった。温泉まではそう遠くないはずなので、私は駅に置いてあった地図を片手にひとりで歩いていくことにした。

 私は温泉それ自体と同じくらい温泉街のことも好きだ。とくに、街中にある共同浴場、すなわち外湯を中心に形成された温泉街が好きで、今回行った場所もまさしくそのような街だった。外湯が好きなのは、入浴客がひとつの旅館の中だけにとどまることなく、必ず街の中を歩くことになるからだ。すなわち、そこには温泉を中心として旅館、飲食店、土産物屋やその他の店などが並ぶことになる。気の利いたところだとそれに加えて古いパチンコ屋や射的場などがあることもある。こういうところは大抵「ひなびた」という形容詞で語られることが多い。「ひなびた」を構成しているものは、歳を重ねた木造旅館、時代に取り残された土産物屋の黄色い看板、朱に塗られた欄干、もうあまり手入れされなくなった小さな神社など、数えても数えきれない。こうしたものをひとつひとつ探して歩くことが、「ひなびた」温泉街を散策する楽しみなのだ。

 ところで、この「ひなびた」ということばは、どういうわけかもっぱら温泉街に対してのみ用いられているような印象を受ける。おそらくこれは、各地の温泉街が昭和60年ごろに最盛期を迎え、その後入浴客を減らしつつあるということと無縁ではないように思う。昔は温泉街にもたくさんの人が来て賑わっていたのに、その頃と比較すると今はもうあまり人が来なくなってしまった。しかし、言い換えればそのことによって温泉街は落ち着いた雰囲気を醸し出す場になったと肯定的に評価することもできる。このような、「少し時代遅れで野暮ったいけれども、静かで落ち着いてのんびりできる」温泉のことを、「ひなびた」ということばを使って表すことにしたのかもしれない。

 さて、そんなことを考えているうちに共同浴場へとたどり着いた。浴場は瓦屋根の重厚な佇まいをしていた。入浴料は150円と安い。経験則上、だいたいこういう温泉の番台は決まって無愛想だと思っていたのが、予想に反してとても愛想がよかった。浴場は石鹸も置いていなければシャワーもない簡素なものだった。湯は熱い。足先からゆっくりと体を沈めていって、首まで浸かったところでぶるぶると身震いをした。そのまま20分ほどじっと浸かっていたら、体中の余計なものが少しずつ抜けていくような気がした。そう思うことができればここに来た目的は果たされたと言えた。帰りの電車でも寝てしまい、気がついたら都会の喧騒に戻ってきてしまったが、肩は驚くほど軽かった。やはり温泉には定期的に行かねばならぬ。

彷徨う夢をよく見るという話その2

 飲み会をのあと、終電では帰れなかったので親しい友人の部屋に泊まった。酒を飲んでから慣れない場所で眠ると、おかしな夢を見てしまうことが多い。そして以前にも記事を書いたように、私が見るのはやはり彷徨う夢なのだ。

 私は地下鉄のホームに立っていた。ほどなくして電車が来た。緑色の帯だったから千代田線に違いなかった。10分ほど乗って降りた。そこからJRの駅まで近かったので地上に出たところでお腹が空いていたことを思い出し、近くの居酒屋に入ってビールとおでんを注文した。その街は昔恋人のような関係になった人が住んでいた街だった。それほど短くない期間のあいだとても仲良くしていたのだが、些細な事から疎遠になってしまっていたから、その人に会いたいような気もしたが、うっかり新しい恋人と一緒に出くわしたりするのはごめんだった。2杯めのおでんにはさっき忘れた卵を頼もうと思ったが、このまま居続けるとその人が新たな恋人と笑いながら入ってきそうな予感がしたから、食べ終えるとすぐに店を出た。駅に向かう途中で、その人が住んでいるマンションの前を通った。部屋に明かりがついているのか気になったが、部屋の番号は忘れてしまっていたから、見上げたところでよくわからなかった。

 このまま電車で帰るのがよいに決まっていたし、そのために早々と店を出たはずなのに、私は改札の前で引き返し、今度は駅の反対側にある繁華街へと向かった。時計を見ると、21時くらいだった。ちょうど1次会と2次会の入れ替えをするくらいの時間だったから、大勢の人たちが繁華街を歩いていた。私は無意識のうちに、最近その人のFacebookにアップされた写真に写っていた赤いマフラーを探していた。何人かおやっと思う人がいたが、みな別人だった。しばらくの間、私は繁華街を何往復もしていた。それよりは駅からマンションの間をあたったほうがよさそうなものだが、そちらの道へはどうしても足が伸びなかった。見つけることよりも、追い求めることのほうが重要だったのだ。だんだん夜が深まってくると、店の明かりの数も減っていった。寒い夜だった。何度も帰ろうと思ったが、もう5分、もう10分歩いたら何か重要なものが見つかるような気がして、それで繁華街を彷徨い続けた。砂時計をひっくり返し続けるような、ひどく無意味な時間の使い方だった。そして私は砂時計の砂に違いなかった。いつの間にか店の明かりは全部消え、街頭も消えた静かな繁華街を、私は永遠に彷徨い続けた。

 翌朝、私は礼を言って友人の部屋を後にし、自分の家に帰った。スマホのアプリは途中でその街を通るように指示してきたが、遠回りして、よく知っている路線だけを使うことを選んだ。

昔流した瓶

 絶対見つからないと思っていたのだが、高校生の頃に書いていたブログを見つけてしまった。アドレスバーにうろ覚えのURLを打ち込んでみたところ、見事に正解してしまったのだ。それほど多くの記事を残していたわけではないが、そこには人生の先行きも描けず、ただひとりで悶々としていた鬱屈とした日々が書きなぐられていた。私が書いた文章であることに間違いはなかったのだが、何年も経ってから見返すと、まるで別の人間が書いたもののようにも思え、不思議な気持ちになった。

 ブログを作ったことはこれまでも何度かあった。最初はいつも記事を書かねばという思いからまめに更新するが、そのうちだんだんと間隔が空くようになって、気がついたら放置してしまっている。たぶんいくつ記事を書いたら、何かを書きたいと思っていた気持ちが満たされて、そのブログは用済みになってしまうからだと思う。そうしてまたひとつ、ほんとうにくだらないことばかり書いた手紙を入れた瓶が、大海原へと流れていってしまうのだ。そうしてその瓶は誰の目にも触れられないまま、しかし確実に漂い続ける。

 そんな瓶をふたたび見つけることができたのだから、私はもうどこにも流れていかないように、自分の手で割ってしまおうと思った。ブログの管理画面を開こうとパスワードを推測して入力したところ、あっさりと入ることができた。ところが、最後にログインした日から時間が経ちすぎているため、メールを確認するように指示されてしまった。そのアドレスはもう使ってはおらず、メールを確認することは不可能な話だった。運営者に事情を話せばなんとかなるかもしれないと思ったが、そこまでしようという根気もなかったから、せっかく拾った瓶を私は再び流すことにした。今度こそ、その姿を見ることはもうないだろうと思う。だから瓶は永久に漂い続ける。

ノスタルジア

 都内で催された大きな市に行った。毎年決まった日に行われる骨董市のようなもので、もう400年以上もの歴史があるらしい。私は想定していたよりもずっと窮屈な人混みに流されながら、古着や雑貨、骨董品や玩具などが並んだ露店を眺めていた。

 露店の品物や、それを手にとっている客を見ているうち、私はあることに気がついた。並べられている品物が、どれも「懐かしすぎる」のだ。それは私にとっての「懐かしさ」ではなく、市にやって来る客のボリューム層と思われる50~60代くらいの人々にとっての「懐かしさ」である。それらは古くて価値があるものというよりは、「懐かしさ」という記号にのみ価値を見出すことができるような品々であるように私には思われた。そう思った瞬間から、商品を眺める私の目は急に冷ややかなものになっていってしまい、財布の紐が動くことはなかった。

 以前にも、同じようなことを思ったことがあった。知人と大きなショッピングモールに行ったときのことだ。そのショッピングモールには「昭和の香り」がすることを売りにした○○堂という駄菓子屋があって、私たちは帰りしなにそこへ立ち寄った。店は内装を木で統一していて、ちびまる子ちゃんに出てくるみまつやのような見た目をしている。そこで、彼は木箱に山のように並べられた駄菓子をひとつひとつ指差しながら、あれもこれも懐かしいね、なんてことを言った。曖昧に同意しておいたが、私にとってこの駄菓子屋は居心地が悪かった。確かに私が小さい頃までは必ずまちに駄菓子屋はあったし、売っているお菓子も見覚えのあるものばかりだった。だが、私たちは「昭和の香り」とは無縁のはずだった。にも関わらず、そのときの彼の口ぶりは、その「昭和の香り」まで含めて懐かしいね、と言っているように聞こえるものだった。経験していないことに対して「懐かしさ」を感じるというのはおかしなことだ。きっと彼は、どこかで「昭和の装い=懐かしさ」であると無意識のうちに刷り込まれていたに違いない。気が付くと、彼は袋いっぱいの駄菓子を買い込んでいた。私も麩菓子を買って食べた。

 いつの頃からか、「懐かしさ」は消費の対象になってしまったようだ。それを批判したりするつもりはないが、マーケティングの道具として使われる「懐かしさ」と、自分の過去の思い出を混同してしまうなら、ほんとうに大切な記憶を葬ってしまうことになりかねない。それはとても寂しいことだ。

二十の私はもういない

 久しぶりに、坂口安吾の『風と光と二十の私と』を開いた。初めて読んだのは20歳のときで、確かTwitter坂口安吾botに紹介されたどこかの一節に惹かれて本を手にしたのだったと思う。安吾の文章を読むのはその時がはじめてで、あるときは他者に寄り添い、またある時は突き放したような態度を取る彼の文体は鮮烈に印象に残るものだった、はずだった。

 ところが、数年経ってから再び読み返してみると、どうしてもはじめて読んだときのことが思い出せない。30ページに満たないこの短編をそもそも読破したのかさえも危ぶまれるほどに、内容も、当時抱いたはずの感想も、全く思い出せなかったのだ。安吾の20歳を書いたこの短編を、それと同じ20歳のときに、確かに読んだはずだった。だから私は今日、たぶんはじめて読んだ時もそうであったように、全てを見通したような安吾の文体を新鮮な驚きを以って迎えたし、いずれこのような文章を書いてみたいとも思ったのであった。

 ただ、それと同時に私は苛立ちを覚えずにはいられなかった。たった数年前に読んで感銘を受けたはずの文章に対して、なぜそのときの記憶を蘇らせることができないのか。きっと今こうして考えていることも、数年経てば思い出すことはできなくなるのかもしれない。私は成人式のことはよく覚えているが、20歳の頃見えた世界を想起することはもはやできなくなってしまったし、今見える世界は、そう遠くない未来、ちっとも気がつかないうちに全く別のものへとすげ替えられてしまうのだろう。その時々の考えをブログや日記などに書き留めておくことはそれに対する抵抗になるかもしれないが、その抵抗に何か意味があるのかと問われると、答えに窮してしまう。