弱み

 地元に住んでいる中学生以来の友人たちが、私の住んでいるまちを訪れてくれた。美味しいものをたらふく食べ、酒を水のように飲み、二日酔いになりながらいくつかの観光地を適当に回った。とても楽しい、懐かしい時間だった。

 帰る友人たちを見送りに空港まで行った。空港で誰かを見送る側になるのは初めてのことだった。手を振りながら、私も友人たちと共に地元のまちまで帰りたいと強く思ってしまった。最近、独り言でもよく、帰りたいと口にしてしまうから、よくない。

 私は自らの意志で東京を離れ、田舎のまちに住むことにしたはずなのだから、そのような気持ちを抱くべきではない、と思う。とはいえ、自らの選択自体を後悔しているわけではない。自分自身がこの場所に存在しているということに納得することと、折に触れて帰りたくて仕方がなくなることは、共に成り立つ感情なのだ。

 友人たちに囲まれて暮らしているときは全く気が付かなかったが、ひとりでいるとよくわかるのは、自分自身がとてつもなく弱い人間だということだ。

霜月

 11月に入ると同時に気温が急激に下がり、もう冬だという声を聴くようになった。今住んでいるところは昨年までいたところよりはだいぶ暖かいから、街中でもうコートやマフラーを纏った人を見かけて少し驚いた。きっと寒いと感じたときからが各々にとっての冬だから、冬は長い季節だ。そして冬に飲み込まれかけている11月は影が薄い。

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 霜月と聞くと国語の教科書に載っていた『モチモチの木』という話を思い出す。山小屋でおじいさんと少年が暮らしていて、そこにはモチモチの木と名付けられた大きなトチの木がある。おじいさんは少年に「霜月二十日のうしみつにゃあ、モチモチの木に灯がともる。起きててみてみろ」と言うのだが、少年は夜闇が恐ろしくて近づこうとしなかった。そんなある晩、おじいさんが急な腹痛を訴え、少年は走ってふもとまで医者を呼びに行くことになる。その時モチモチの木を見上げると、木に雪灯が明るくキラキラと輝いていた、というのが簡単なあらすじだったように思う。私は国語の教科書のこの話が好きだったから、トチの木もトチの実も好きだ。栃木県に行ったとき、ほんとうにトチの木がたくさん植えられていたので愉快だった。それにしても、やはりこの話でも秋から冬に移り変わる時として霜月が扱われているし、もしかしたら霜月は端から冬なのではないかという気になってくる。

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 私が住んでいるところでは今日まで大きな祭りがあって、びっくりするぐらい多くの人が訪れていた。電車の本数も連結される車両の数も増え、祭り専用の臨時駅まで設けられた。たくさんの気球が集まってきて、飛んでいった。祭りが終わって、明日からは再びいつもの味気ないまちが戻ってくると思ったら、いつの間にか目抜き通りの街路樹にはイルミネーションが取り付けられていた。都会のものとは違う、野暮ったさの抜けない電飾だ。私は未だこのまちを構成する人間にはなりきれていないから、どうしてもまちの風景にいちいち違和感を覚えてしまう。別段イルミネーションが好きというわけでもないのに、不思議なことだ。いつの日か、このまちの光景を自分に馴染むものとして受け入れられる日が来るのだろうか。もしかしたら、その前に、またどこかに住処を移すことになるのかもしれない。寒いと人肌恋しくなるせいで、余計なことを考えてしまう。

25の秋の破片 その1

 月の数字がひと桁増えて、ようやく暑さが姿を消した。空と風は秋がいちばん心地よい。住んでいるまちは稲刈りが遅くて夕陽がきれいなところだから、今がまさに秋の装いといった様相だ。

 先日、ひとつ歳を取った。歳を取ってもその年の抱負を考えることもなくなったし、そんなことを人から尋ねられることもなくなったから、大人になったのだと思う。奇しくも誕生日は健康診断に行くことになっていた日で、ひとつ歳を取った体の中を検査した。前日の夜から何も食べていなかったから、誕生日に初めて口にしたのはバリウムだった。健康診断が終わってからは自転車で少し離れたショッピングモールに行って、ハンバーグを食べてから映画を見た。人を信じて失敗する人と、人を信じられずに失敗する人が出てくる映画だった。そのあとで楽器屋に行って、アコギを買って帰ってきた。毎日家ではあまりすることがないから、同居人になってもらおうと思ったのだ。まだあまり上手くは話せないが、それでもときどきは綺麗な音を奏でてくれて、一緒にいるのが心地よい。

 これまた先日、乗っていた列車が突然止まった。工事現場の足場が線路に崩れたらしい。私はイヤホンで音楽を聴きながら最近見た映画の小説版を読んでいたから、しばらくそのことに気が付かなかった。イヤホンを外すと車内放送があって、今から送電を止めるから全員外に出るようにと言われた。2両編成の電車に乗っていた乗客たちは、何もない無人駅に放り出された。初動が素早い者は手際よく駅前に着いていたタクシーを拾い、またある者は乗り換えがある2つ先の駅に向けて歩き出した。大多数の者は電車が動き出すのを待っていて、私も当初そうしていたが、どうにも動き出す気配がない。だが、こういうときは一人旅で培った勘が働く。Googleマップを見ると20分ほど歩いたところに国道が走っていて、その脇にニトリがあることがわかった。店のページを検索してアクセス方法を調べたところ、どうやらバスでも行けるらしい。小さい山を越えて国道沿いの停留所に着いたのとほぼ同時に、目的地のそばまで向かうバスが滑り込んできた。なんということのないただの移動が小さな旅になった。

 特に意味はないが、ブログのタイトルを変えた。以前のタイトルは好きなフレーズだったが、断片を綴るだけのブログには似合わないと思ったからだ。できるだけブログは意味のない文章を書く場所にしたい。

長月

 夏場は水不足が懸念されていたが、暑さも峠を越えた頃からは雨が降り続くようになった。稲刈りが間近に迫って田も黄金に染まりはじめ、少々であれば恵みの雨となるが、これ以上長く雨が降り続くようだと収穫にも影響を及ぼしてしまうかもしれない。食べ物や愛を与えるのと同様で、何事にも適度な量があって、少なすぎたり多すぎたりしてしまうとすぐに綻びができてしまう。綻んだものはどんなものでも、直すのには時間がかかるし骨も折れる。

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 十五夜の日も相変わらず雨が降っていた。幼いころは十五夜に月を眺めながらもちを食べるのが楽しみだったが、いつの間にかそんなことは気にも留めなくなってしまっていた。季節の行事は現代になるにつれ忘れ去られるのと同様、子供から大人になるにつれても忘れ去られていく。

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 不思議なもので、先月は東京にはしばらく行かないだろうと思っていたのが、もうじき行くことに決まった。取り立てて用があるわけでもないし、東京に帰属意識があるわけでもないから、なぜそうしようと思ったのかについては合理的な説明が得られていない。だが、もし台風の影響で予定がキャンセルになってしまったのだとしたら、それはとても悲しいことだと感じられるに違いない。要するに、私はどこの土地にも縛られたくないし、自分の意志で絶えず移動し続けていたいだけなのかもしれない。

隠遁

 梅雨が明けると同時に、東京の家を引き払って、田舎へと引っ越した。もともと東京に長く住む予定はなかったから、梅雨明けは都合のよいタイミングだった。新しいまちは、きっと多くの人が名前を耳にしたことのあるまちだが、その印象を問われると何も出てこないような、影の薄いところだ。実際にまちには活気がなくて、空気も心なしかどんよりしている。ただ、東京と違ってそのぶんだけ何もかものんびりとしているから、ただ日々を送ることに捧げなければならない体力は少なくて済む。贅沢を言えば足りないものはいくらだって思いつくが、考えてみてば、何かを飾る必要などここにはないのだ。何もないが、べつに何もいらないのだ。キラキラしたものも、煩わしい人間関係も、すべて都会の団地のゴミ箱に捨ててきたから、とても身軽だ。

 つい何日か前に、東京には台風がやってきたそうだ。こちらでもテレビをつけていると、しきりにやれ都内の電車が運休になっただとか、どこそこの川が氾濫しただとかのニュースが流れていた。私の住む街ではいつもどおり焼けるような暑さが続いていたから、画面の向こうにある世界はなんだかとてつもなく遠い場所にあるように思われた。私も先月まであの場所にいて、もしこのまちに引っ越さなければ台風の渦の下にいたはずなのに、なんだか不思議な気分だった。その時、東京には行こうと思えばいつだって行けるはずなのだが、しばらくは訪れることもないのだろうと悟った。

人間が引き起こすエラーに関するメモ

人間は生きている中で必ずエラーを起こしてしまう生き物だ。そして特にここ最近、多くの人間がこのエラーを起こしてしまっていると思う。

ここでいうエラーというのはヒューマンエラー、すなわち意図しない失敗のことではなくて、通常の状況であれば冷静な判断ができるはずなのに、そのような意思決定ができなくなってしまう状態に陥ってしまうことを指す。

私はこのエラーが最も多発するのは性欲に関することだと考えていて、一時の気の迷いなどのエラーによってしばしば人間関係の破壊が起きてしまう。少し言いすぎかもしれないが、そもそも性行為が生殖以外の役割を持つこと自体が人間の構造的欠陥とも言えるかもしれない。私はそう考えているから、時々「人間は恋愛に向いていない」などというふざけた発言をかましてしまう。

ところで、ここ1週間ほど、機械によってエラーが引き起こされているとしか考えられない現象が多発している。例えばスマホを見ながら歩いていて、その結果物や人とぶつかってしまうだとか、そういった具合の話だ。このような危険はじゅうぶんに予測できるはずであるのに、画面に気を取られるあまりに防げなくなってしまっている人間が急増しているのではないかと思う。私は別に歩きスマホは危険だからやめろなんてつまらないことを言いたいのではない。ただ、道を進むという行為は人間に備わる基礎的な能力であるはずなのだが、それが脅かされるような状況が起きているということには自覚的であったほうがいいかもしれないと言いたいのだ。さらにそれがまだ人工知能の備わっていない機械によって引き起こされてしまっているということにも注意を払っておきたい。もうひとつ付け加えておくと、その機械が人間にエラーを引き起こすときに用いている武器は、多くの大人たちの心の中にあるノスタルジーを呼び覚ますという類のものなのだ。

文月

天気は未だに不安定なままだが、苦手な6月が終わって7月になった。体調の優れなかった前月とは打って変わって、今のところ7月は調子がよくて助かっている。

先日は大学があった街に帰った。東京から日帰りで行けぬ場所でもないが、せっかくなので2泊して街を歩き回った。大学の様子はちっとも変わらなかったが、私のメールボックスは当然のようになくなり、代わりに新入生の名前が書かれたシールが貼られていた。旧居にも誰かが入居していて、私が存在したという痕跡がしっかりとなくなっていることを確認した。それは寂しくはあるが、去りがたかった街を去り切るためにはありがたいことに違いなかった。
それから、次の週には好きなバンドのライブに1年ぶりに行った。彼らは私の精神を形成する過程において大きな影響を及ぼしてきたし、今後も間違いなくそうであるだろうと思う。私は彼らのことを愛してやまないがために、いつからか彼らが好きだということをあまり人に言わなくなり、大勢で行くカラオケで歌うこともやめてしまった。そんな彼らのライブはいつも心地がよくて、この瞬間は浮世に存在していないのではないかという心地になる。時々どうしたら彼らのように生きられるのだろうと考えるが、さっぱり答えが出ない。

文月は、精神的にも肉体的にも足りなくなってしまっていたものを補うことができている。けれども東京はあまり私の性に合わない土地だとも感じるから、いっそ田舎に引っ越してしまいたいとも思う。思い立ったことはやらないと気がすまないので、フラフラとどこかへ旅立ってしまおう。