典型的な朝の話

1軒目の居酒屋を出たあと、連れられるがままに2軒目へと向かった。2軒目も当然居酒屋に行くものとばかり思っていたが、入ったのは厚化粧した女性がいるスナックだった。私は女性の話を全く聞かずに適当に相槌を打ち、できるだけどうでもいい曲を選んでカラオケを歌い、少し飲むとすぐにまた注がれる水割りの焼酎を飲み続けた。日が変わる頃に家に帰ったが、思いの外酔いが回ってきてそのままベッドに倒れ込んだ。

酒をたくさん飲むと眠りが浅くなる。4時頃にふと目が覚め、それからしばらく眠れなくなるのはいつものことだった。私が住む街は日が昇るのが遅いが、それでもこの季節になるともう空は明るかった。ひと月前と比べると気温もだいぶ高くなり湿気が多かったので、窓を開けてまた横になった。

5時頃になると、徐々に街が朝を迎える。駅のすぐそばにある部屋には様々な音が勝手に届けられる。始発の電車が出ることを告げるアナウンスに続いて、電車が走る音が聞こえる。この時間の電車に乗る人はごく少ないが、それでも何人かの人々は用事を済ますか、あるいは夜勤を終えて家に帰るために電車に乗っていることだろう。そんなことを考えながら、私は再び微睡みはじめた。

7時頃になってアラームが鳴り、何度かスヌーズを繰り返したところでベッドから出た。アラームで流す曲は定期的に変えているが、今使っているのはFlipper's Guitarの「すてきなジョイライド」という、宇宙旅行に向かう曲だ。私はシャワーを浴びて、うどんを茹でる傍ら作り置きしていたおかずを弁当箱に詰めた。私は朝にうどんを食べるのが好きだ。うどんには溶き卵と、ミンチ天かさつま揚げを入れる。朝食を終えるとまたひと眠りしたくなるところだが、いつものように着替えて職場へと向かった。

1年前の今頃の日記その5 チベット寺院にて

起きてから宿を出ようとするが、宿主が見当たらない。いつもロビーに居候している男(彼は私を見かけるたび「コニチハ!」と話しかけてきた)に尋ねると、スマホの翻訳機能を使って「boss go out」と教えてくれた。いつ戻って来るのかもわからないというので途方に暮れるところだったが、彼が精算の手続きをしてくれるようだった。彼には釣り銭の手持ちがなかったので、他の部屋に宿泊している旅人からお金を借りてきて、それで建て替えてくれた。彼と旅人に礼を言ってから温かい気持ちで宿を出た。広場でチベット族の老婆がパンとミルクを売っていたので買って食べた。パンはバサバサしていて、ミルクも甘ったるく、おまけに500円も取られたが、いい気分だった。

路線バスに乗って、ポタラ宮のような見た目をした寺院に向かった。途中からチベット族の人々が続々と乗ってきてバスは満員だった。寺院に着くと私は2,300円の観光客用チケットを購入したが、彼らはお金を払わずに脇の道から入っていった。チベット族が多くいたのは、この日は何かしらの祭事が催される日のようだったからのようだった。彼らは参道を何かが通るのを待っているようだったので、私も一緒になってその何かが通り過ぎるのを待っていた。しばらくすると赤い衣を身に纏った僧の一行がやってきた。最初は旗を持った僧が通り、次に装飾が施された馬、楽器を持った僧、宝物と思われる道具を抱いた僧などが続いた。そのあとで輿に座らされた仏像が通ったとき、見物客たちは歓声を上げてオレンジ色の布を放り投げていた。これが一体何の祭事なのかは見当もつかなかったが、輿が通りすぎると皆散り散りになって帰っていった。私は長い階段を登って本堂を参拝した。中では熱心なチベット仏教徒たちが祈りを捧げていた。チベット仏教には多面多臂の仏が多いため、仏像を眺めているだけで飽きることはなかった。

 

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寺院からはバスターミナルまで歩き、そこから再び麗江へと戻った。この日の夜は夜行列車に乗ることになっていたので駅へ向かおうと路線バスに乗ったが、駅よりも遙か手前のバス停で降ろされてしまった。同じ系統の路線で駅まで行けるはずだったが、仕方がないので駅まで歩くことにした。結局地図を片手に4kmほど歩かされる羽目になり、途中ガリガリに痩せた野良犬が後を付いてくるなど肝を冷やした。そもそも駅に向かう路線バスなど最初から存在しなかったようで、素直にタクシーを使うべきであった。寝台列車に乗り込み、ビールを飲み干すと疲れが出てきてすぐに眠ってしまった。目が覚めると雲南省最大の都市である昆明に到着する頃だった。f:id:bluepony:20170326224706j:plain

1年前の今頃の日記 その4 大峡谷

朝起きて、中国人向けのツアーのオフィスに行った。ここまで来たからにはチベット族の村に行きたいと思ったが、自力で辿り着くのは難しいようだったからだ。オフィスで身振り手振りで手続きをしてからしばらくすると1台のバンがやってきて、10人ほどの乗客とともにそれに乗り込んだ。1時間半ほどバンに乗ったあと、今度はバスに乗り換えさせられ、さらに峠道を登っていった。ツアーだったので道中ではガイドの女性が何やら説明してくれていたようだったが、話の中身については私の知るところではない。

山道を登りきったところで、一行はバスを降ろされた。どうやらチベットの村に着いたようだ。丘の上にチベットの仏塔が建っており、その周囲に色とりどりのタルチョが張り巡らされていた。丘の後方には土でできた住居が点在していた。今でも人が住んでいる村のはずだったが、なぜか住人の姿は見かけなかった。

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30分ほど村を散策したあと、バスは山道を下り、今度は谷まで降りた。ここでは峡谷の岩肌に遊歩道が取り付けられていて、3km弱ほど自由に歩くことができた。川面から渓谷のてっぺんまではどれほどの高さがあるのだろう、少なくともこの壁は私がこれまでの人生で見たどんな壁よりも倍以上は高いと思われる崖だった。このような崖を2箇所ほど巡った。一緒にツアーに参加した女性にシャッターを押して欲しいと頼まれたので何度かシャッターを切った。話しかけられても何を言っているのかわからなかったが、「我是日本人」とだけ言ったら理解してくれて、私の写真も何枚か撮ってくれた。そのあと、またバスからバンを乗り継いでまちへと戻った。

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夕方まちへ戻ったが、この日はまだ何も食べていなかったのでお腹が空いて仕方がなかった。近くにある韓国料理の店が「YAK BAR」という名前だったのでヤク(インドやチベットにいる牛)が食べられるのかと期待していたが、メニューにはなかった。仕方がないので韓国料理を食べながらビールを飲むと、高地から戻ってきただけあって頭痛がした。宿に戻ると、昨日夕食を共にした中国人学生たちはもういなくなっていた。

 

1年前の今頃の日記その3 シャングリラ

朝起きてチェックアウトしようとすると、宿の小姐が「時間があるならお茶でも飲んでいきなよ」と言うので、テラスに上がって共に茶を飲んだ。雲南のお茶はとても濃く、最初に器に注いだお湯は全て捨て、2杯目から飲むらしかった。ちなみにプーアル茶雲南の茶だ。

小姐は少し英語が話せるようで、私たちは片言の英語でしばし雑談をした。これからどこに行くだとか、前にこの宿にやってきた日本人の話をしたり、互いのあいさつや数字の発音の練習をした。小姐は中国の宿がたくさん載った、使い込まれてボロボロになったガイドブックをくれた。指差し会話帳を見ながら「お世話になりました、どうもありがとう」と言うと、どうやら通じたようで笑いながら「いえいえ」と返された。

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宿を出た私はバスターミナルへと向かった。バスのチケットを買うためには窓口で行先を告げる必要があったから、「~まで1枚」というフレーズだけ何度も練習した。その甲斐あって行先は伝わったものの、その後になんだかよくわからないことを言われたので適当に受け流した。どうやら事故に遭った時の保険をつけるかどうかを聞いていたようで、保険付きのきっぷが発券された。保険は不要だったのでその後きっぷを買う時は「保険は不要」というフレーズを付け足した。旅の途中で覚えた唯一の中国語だ。

バスには4時間ほど揺られた。もちろん日本の高速バスのような座席ではなく、幼稚園バスのような硬い座席だ。座席は窮屈だったが、日本では目にすることのない形の山や草原などを眺めていると退屈はしなかった。標高1,800mの麗江からさらに山道を登り、着いたのは標高3,000mほどの香格里拉(シャングリラ)というまちだった。高山病が心配だったので、念のために登山のときによく使われる漢方薬を飲んでおいた。さすがに空が近く感じた。

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香格里拉では日本で見た旅行記に載っていた宿に泊まるつもりだったが、探しても見当たらなかったのでドミトリーに泊まることにした。ドミトリーで同室だった中国人の学生と夕飯に行くことにした。彼が別室にいた上海から来た学生カップルも一緒に誘い、4人で鍋を囲んだ。一人旅では大皿に入った料理を食べることは出来ないからありがたかった。カップルの男のほうが「俺の彼女、かわいいと思うか?」と聞いてきたので、「そう思うよ、日本でもモテる」と返したら女の子の方は照れていてとてもかわいかった。

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食後は皆で近くにあったチベット仏教の寺院に行った。シャングリラはチベット自治区に隣接したまちで、住民のほとんどはチベット族だった。チベット仏教にはマニ車という中にお経が入った筒のような仏具があって、これを1回回すとお経を1回読んだことになるらしかった。この寺院にはこのマニ車を巨大にしたもの(下写真左)があって、10人がかりでがんばってようやく回るものだった。チベット仏教のことはよくわからないが、見知らぬ人とマニ車を回していると不思議な気持ちになった。f:id:bluepony:20170221221320j:plain

1年前の今頃の日記その2 麗江にて

朝起きて8時頃にホテルを抜け出した。腹拵えをするつもりで古い街をフラフラしていたが、まだどこも開いていない。1時間ほど歩いてから、街外れの薄汚い路地の一角にある小さな食堂に入った。食堂と言っても少し大きな屋台のようなものだった。壁に書かれたメニューを見て、言葉が話せないので適当に指を差して注文した。私が外国人だとわかると、店員の女性が辛さはどうするかと聞いてきた。私は、あまり辛くしないでくれ、と頼んだ。全く話せないのにどうやってこんなやり取りをしたのかちっとも覚えていないが、確かにそんなことを言った気がする。ほどなくして、白飯の上に豚肉とナスとピーマンをかなり辛く炒めたものを乗せた料理が運ばれてきた。通じていなかったのかと思ったが、これでもかなり抑えていたようだった。

腹拵えの後は黒龍譚公園という景色の良い公園まで歩いた。公園で中国人カップルに写真撮影を頼まれたので、適当にイーアーサンと言ってシャッターを押してあげたら、礼を言ったあと外国人だとは気がつかないまま去っていった。天気がよく、公園の背後には玉龍雪山という富士山よりもずっと高い山がはっきりと見えた。

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その後はレンタサイクルを借り、少し離れたところにある古い街並みを2箇所ほど回った。宿のある街と比較すると人も少なくだいぶ落ち着いた場所で、こちらのほうがずっと居心地が良かった。

 

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日が暮れる頃に宿に戻り、夕飯は街の中の屋台で取ることにした。珍しかったので、ナスに切り込みを入れてその間に厚揚げやらひき肉やらを詰め込んだものを指差して注文した。そのまま焼いて食べるのかと思ったが、焼く際にはコテを使ってすべてみじん切りのようにして食べるようだった。喉が渇いたので、味の薄いビールを買って飲んだ。一度も日本語を使わない日は、生まれて初めてだったように思う。

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1年前の今頃の日記 その1

1年前の今日の日記を、思い出しながら書いてみようと思う。旅に出た日のことだ。

 

二日酔いのまま、早朝にカプセルホテルをチェックアウトして空港へ向かった。

慣れない国際線だが搭乗手続きをなんとか済ませ、ロビーでTwitterを開いて「今からしばらく旅に出ます」と呟いてから北京行きの飛行機に乗り込んだ。

離陸からしばらくして機内食が運ばれてきた。ジャガイモ入りのソース焼きそばだったと思う。味は濃いし、ジャガイモは固いしであまり美味しくなかったが、なぜだか今でも時々食べたくなる。

機内食を片付けた頃、隣席の青年に声を掛けられた。彼は日本の専門学校に通う留学生で、休暇で実家に帰るところだった。私が中国を訪れるのは初めてで、中国語も話せず、しかも北京や上海ではなくこれから雲南省に行くのだ、と知った彼は、「それはちょっと心配、気をつけてね」と言った。加えて「中国の土産には偽物が多いから注意するように」とも忠告した。彼は北京首都国際空港のゲートまで私を見送ってくれ、そこで手を振って別れた。

乗り継ぎまで6時間ほど時間を潰す必要があったため、現金を下ろしてから天安門広場へと向かった。地下鉄きっぷを自販機で購入しようとしたが、何度入れても紙幣が戻されてしまった。後ろに並ぶ人に何か声を掛けられるが、ちっとも意味がわからない。仕方がないから窓口で、路線図を指差してきっぷを買った。あとで気がついたが、どうやら私が高額紙幣を投入していることが原因のようだった。

天安門は写真でよく見るとおりの場所だった。周りを歩いたら満足したので、中には入らず空港まで戻った。空港でラーメンを注文した。猪骨というから猪なのだろうと思ったが、豚のことだった。再び飛行機に乗り込んで、麗江というまちに到着した。

空港からのシャトルバスを降りて宿まで向かった。麗江はナシ族という少数民族が多く住んでいるまちで、古い街並みは世界遺産にも登録されている。古い街は複雑に入り組んでいて、ネット環境のない私にとってゲストハウスの場所を見つけるのは至難の技だった。結局同じ場所を何度もうろうろして、2時間ほど彷徨った末にようやく宿を探し当てた。ベッドに転がってネット接続を試みたが、LINEもTwitterFacebookも一切繋がらなかった。ひどく疲れたので、その日はシャワーを浴びてすぐに眠りについた。

 

 

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弱み

 地元に住んでいる中学生以来の友人たちが、私の住んでいるまちを訪れてくれた。美味しいものをたらふく食べ、酒を水のように飲み、二日酔いになりながらいくつかの観光地を適当に回った。とても楽しい、懐かしい時間だった。

 帰る友人たちを見送りに空港まで行った。空港で誰かを見送る側になるのは初めてのことだった。手を振りながら、私も友人たちと共に地元のまちまで帰りたいと強く思ってしまった。最近、独り言でもよく、帰りたいと口にしてしまうから、よくない。

 私は自らの意志で東京を離れ、田舎のまちに住むことにしたはずなのだから、そのような気持ちを抱くべきではない、と思う。とはいえ、自らの選択自体を後悔しているわけではない。自分自身がこの場所に存在しているということに納得することと、折に触れて帰りたくて仕方がなくなることは、共に成り立つ感情なのだ。

 友人たちに囲まれて暮らしているときは全く気が付かなかったが、ひとりでいるとよくわかるのは、自分自身がとてつもなく弱い人間だということだ。