ローカル線に乗って

 学生時代、私がひとりで行く旅は全て日本の、それもほとんどの場合は田舎を訪れるようなものだった。いくつか行きたい場所をリストアップして、青春18きっぷで何泊かかけてそれらを結んで回る。当然結んだ点と点の間にもどこかしら魅力的な場所があるから、そこにも立ち寄る。目的地になる場所は温泉や史跡、伝建地区、鉱山や鍾乳洞などが多い。特に何もない漁村や農村に行くこともある。時間はあるが金はないので、長く旅を続けるために宿泊施設にはこだわらずにできるだけ安いところを選ぶ。食事は1日1回だけ贅沢をして、ほかの2食は適当なパンやおにぎりで済ます、とだいたいこのような具合だった。

 ところで、ローカル線にばかり乗って旅をしていると、どうしても移動にかける時間が長くなる。そうなると、車窓を眺めるか、持ってきた文庫本を読むか、寝てしまうかくらいしか選択肢がなくなる。しかし後から振り返ってみると、訪れた場所と同じくらいそのような時間のことも案外覚えているものだ。

 山口の萩から島根の出雲まで日本海沿いに走る汽車に乗ったときのことだ。この道中には益田、浜田、江津、大田と4つのまちがあるが、それ以外はほぼ山の中を走る。しばらく車窓を眺めていると、山口と島根の県境あたりからトンネルが多くなる。トンネルを抜けると山の下には小さな浜が現れる。浜を見下ろすと、山の方から浜の中心に向かって1本の川が流れていて、それにしたがって三角州が形成されているのがわかる。傾斜がきつい山際は段々畑になっているが、海の近くには20~30軒ほどの家が、車も通れないほどびっしりと軒を連ねているのが見える。漁村が見えると駅があって汽車が停まり、出発するとすぐにまたトンネルの中に入る。トンネルを抜けるとまた漁村があり、ああそろそろ駅だなと気がつく。それを繰り返しながら汽車は進んでいく。だが、たまに漁村が見えても駅がない場合もある。そうするとひとつの疑問が浮かぶ。この漁村に住んでいる人々は、一体どうやって移動するのか、と。今では線路とほぼ並走するように国道が走っているから、そこまで車で登ってしまえばどこへでも行けるだろう。しかしここに人が住むようになったのはまさか国道ができた後ではあるまい。他の漁村とてそれは同じことで、道路が整備されたり鉄道が通ったりするよりも前からそこは既に漁村であったに違いない。そうすると、移動手段は自ずと限られてくる。舟だ。舟しかない。それも今ならモーターがあるが、ずっと昔は手漕ぎの舟だったはずだ。ここに住む人々は、何か行事があれば、他の浜やもっとのその先まで、陸ではなく海の上を移動して暮らしていたはずだ。それぞれの浜は独立しているが、人々は舟で行き来をしていたはずで、そうすると一体どこの浜が最もプレゼンスが高いのか、浜の間に権利をめぐる争いなどはなかったのか、祭礼は合同で行っていたのか、など新たな疑問が次々と浮かんでくる。そうしたことは、そのあたりの図書館で民俗史を読めばすぐにわかるはずだ。私はいっそのこと何もない漁村の駅で汽車を降りて確かめてみようかと考えたが、なにしろ本数の少ない路線だったから、そのまま次の目的地へと向かった。こんなことを考えるのがローカル線での旅の醍醐味だと思う。

 また別の時の話だ。私は岩手の盛岡から青森へと向かおうとしていた。盛岡は都会だから、列車が出発した19時台には会社や学校帰りの客が多く乗っていた。だが30分も乗っていると車内は閑散としてきて、窓の外の灯りも次第に減っていった。私はしばしうたた寝をしていて、ふと目を覚ますと汽車は山の中を走っており、既に車内に人影はなかった。窓の外は暗闇で、私の顔だけが映る。このようなときは、世界に自分だけしかいないような気分になって、とても心細くなる。それでも汽車がぎゅいんと力強い唸りを上げて峠を登る音を聞くと、実は強いものに守られているのではないかと思い直して少し元気になる。この汽車は私が行きたい目的地までは行かないもので、その後の時間にはもう後続の汽車はなかった。それで私は終着駅の少し前の無人駅で汽車を降りた。ホームから汽車が過ぎ去り、小さくなっていく赤いテールライトを眺めながら、今度こそ本当に自分はひとりぼっちになったと思った。ただ虫の声が鳴くばかりのホームで、寂寞の思いに駆られてうっかり涙を流すところだった。

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街が消えるということを想像できるか

 ある小さな島を訪れた。この島を仮にS島と呼ぼう。私がS島を訪れたのは、たまたま近くを通りかかった際、まちの観光パンフレットで存在を知ったことがきっかけだった。S島はかつて捕鯨をしていたところで、島にある小さな博物館にクジラの骨格が展示されているという。既に午前中のうちに目的の場所を訪問し終え、暇を持て余していた私は、ただ巨大な哺乳類の骨格を眺めるためにS島に渡った。

 渡った、と言っても、S島には本土から橋がかかっており、車で行くことができる。その白い大きな斜張橋が開通したのは20年ほど前のことで、それ以前は船を使わないと島には辿り着くことができなかったそうだ。S島に渡り、沿岸の道路から逸れて山を少し登ったところに博物館があった。館内には、初老の男性がひとり、靴を脱いで机に足を投げ出しながら座っていた。定年を迎えた地元住民が役場の教育委員会から雇用されているのだろう。私が入って来るのを見るや、彼はいらっしゃいと言ってすぐに姿勢を正し、私の元へ寄ってきて語り始めた。

 彼は言う。今はもう見る影もないが、かつてここは炭鉱で栄えた島であると。炭鉱では明治末期から採掘が始まり、戦後の高度経済成長期まで続けられていた。炭鉱は財閥系企業の手によって開発が進められた。何千人もの坑夫たちが雇用されて移住してきたため、島にはアパートが何棟も建設され、団地が形成された。小学校や中学校は1学年10クラスを超える、県下でもいちばんのマンモス校となった。また、坑夫やその家族たちの生活を支えるために、日用品を販売する店が軒を連ねたし、映画館も4館、それからこういう街には付き物の遊郭なども建てられた。離島ではあるが、S島には紛れもなく都市の生活のような華やかな暮らしがあった。他方で、炭鉱での労働は常に危険と隣り合わせの過酷なものでもあった。彼らの働きは戦後の高度経済成長の時代の原動力となったが、その頃になるとエネルギー源としては石油が台頭してきたこともあり、石炭産業はその役目を終えることとなった。今から50年ほど前に鉱山が閉山となると、それまで住んでいた人々のほとんどがS島を離れていった。S島は炭鉱以外には産業がなかったため、みるみるうちに島は廃墟だらけになった。その廃墟も解体が進み、10年ほど前までは何棟か残っていたアパートも、今では影も形もなくなり、すっかり更地となった。残っているのは坑口の跡や煙突などのほんのわずかな遺構と、往時を知る数少ない住民の記憶だけだ。

 彼は当時の街の様子が写された写真集を見せてくれた。地図を指差しながら、この場所はこのあたりで、今は何もない場所だが、昔は数え切れないほどのアパートが建っていただとか、そのような話をしてくれた。私はS島のことをよくあるような田舎の離島のひとつ程度にしか思っていなかったため、彼の話にはたいへん驚かされた。ポーンペイでもあるまいし、ひとつの都市があったのが、今では跡形もなくなり、その存在すらほとんど知られていないということが、にわかには信じ難かった。

 S島と成り立ちが似たような場所としては、世界遺産にもなった軍艦島がある。軍艦島もかつて炭鉱として栄えた島だ。今では誰ひとりとして住んでいないにも関わらず、かつて栄えた街が当時のまま残っていて、まるごと廃墟と化した街の姿は見る者を驚かせる。軍艦島の炭鉱も、S島の炭鉱も、ほとんど同じような歴史を歩んできたが、軍艦島は廃墟がそのまま残っているのに対し、S島は正反対で全く何も残っていない。この点で2つの島は大きく異なる。視覚的にインパクトがあるのは間違いなく軍艦島の方で、廃墟マニアでなくとも、多くの人は1度くらいあのまるごと廃墟となった島を訪れてみたいと思うだろう。S島にはそういった廃墟はなく、博物館でも訪れなければ、かつて炭鉱が存在したということにさえ気が付かないだろう。しかし、だからこそ、ここでは想像力が試される。更地を目の前にして、かつてこの地に巨大な街があり、それが消えたということを想像できるか。街が造られ、そして消えたという事実は、そのこと自体が、私達が歩んできた近代化という時代の荒波の痕跡なのだ。眼前の更地で時折風にそよぐ夏草の姿を見ていると、名句の一節が脳裏に浮かび、これもまた夢の跡とでも言うべき人間の儚さなのだろうと感ぜられた。

夏の日の突き抜けるような青い空にひこうき雲が

 何度も飛行機に乗っているうちに、昔は離着陸のときは緊張してばかりいたのが、いつの間にか何も感じぬようになってしまった。しかし、飛行機のちっぽけな窓から外を眺めることだけは、何度乗っても飽きないままだ。機体が上方に傾くとともに空港や付近の建物はみるみるうちに小さくなっていき、確かあの道路を通って空港まできたはずだなどと思っていると、いつの間にか機体は雲の中に達している。

 雲を眺めていると、空の中にも高さがあるのだということがよく分かる。今通っているのは積雲だが、そのだいぶ上にひつじ雲やうろこ雲があるから、空の上にもまたさらに空が続いているのだろう、といった具合の話だ。もちろん我々は、雲には上層雲から下層雲まであって、出現する雲の種類は高さによって違う、くらいのことは朧げに覚えている。だが、知っているということと身をもって知らされるということは全く違っていて、空に高さがあるということを知らされることではじめて、空の高さの様子を楽しむことができるようになるのだろうと思う。

 ところで、私が最も好きな雲はひこうき雲なのだが、残念なことにこればかりは飛行機からは眺めることができない。ひこうき雲は力強く進む飛行機が通った道筋にできるが、できた瞬間から徐々に薄くなり、やがて消えてしまう。青い空に流れる一筋のひこうき雲は強くて儚い。尾翼から流れていくひこうき雲を機上から眺めることができればよいのだが、それが叶わないのは自分の過去を振り返ることができないのと同様のことだろう。

 

典型的な朝の話

1軒目の居酒屋を出たあと、連れられるがままに2軒目へと向かった。2軒目も当然居酒屋に行くものとばかり思っていたが、入ったのは厚化粧した女性がいるスナックだった。私は女性の話を全く聞かずに適当に相槌を打ち、できるだけどうでもいい曲を選んでカラオケを歌い、少し飲むとすぐにまた注がれる水割りの焼酎を飲み続けた。日が変わる頃に家に帰ったが、思いの外酔いが回ってきてそのままベッドに倒れ込んだ。

酒をたくさん飲むと眠りが浅くなる。4時頃にふと目が覚め、それからしばらく眠れなくなるのはいつものことだった。私が住む街は日が昇るのが遅いが、それでもこの季節になるともう空は明るかった。ひと月前と比べると気温もだいぶ高くなり湿気が多かったので、窓を開けてまた横になった。

5時頃になると、徐々に街が朝を迎える。駅のすぐそばにある部屋には様々な音が勝手に届けられる。始発の電車が出ることを告げるアナウンスに続いて、電車が走る音が聞こえる。この時間の電車に乗る人はごく少ないが、それでも何人かの人々は用事を済ますか、あるいは夜勤を終えて家に帰るために電車に乗っていることだろう。そんなことを考えながら、私は再び微睡みはじめた。

7時頃になってアラームが鳴り、何度かスヌーズを繰り返したところでベッドから出た。アラームで流す曲は定期的に変えているが、今使っているのはFlipper's Guitarの「すてきなジョイライド」という、宇宙旅行に向かう曲だ。私はシャワーを浴びて、うどんを茹でる傍ら作り置きしていたおかずを弁当箱に詰めた。私は朝にうどんを食べるのが好きだ。うどんには溶き卵と、ミンチ天かさつま揚げを入れる。朝食を終えるとまたひと眠りしたくなるところだが、いつものように着替えて職場へと向かった。

1年前の今頃の日記その5 チベット寺院にて

起きてから宿を出ようとするが、宿主が見当たらない。いつもロビーに居候している男(彼は私を見かけるたび「コニチハ!」と話しかけてきた)に尋ねると、スマホの翻訳機能を使って「boss go out」と教えてくれた。いつ戻って来るのかもわからないというので途方に暮れるところだったが、彼が精算の手続きをしてくれるようだった。彼には釣り銭の手持ちがなかったので、他の部屋に宿泊している旅人からお金を借りてきて、それで建て替えてくれた。彼と旅人に礼を言ってから温かい気持ちで宿を出た。広場でチベット族の老婆がパンとミルクを売っていたので買って食べた。パンはバサバサしていて、ミルクも甘ったるく、おまけに500円も取られたが、いい気分だった。

路線バスに乗って、ポタラ宮のような見た目をした寺院に向かった。途中からチベット族の人々が続々と乗ってきてバスは満員だった。寺院に着くと私は2,300円の観光客用チケットを購入したが、彼らはお金を払わずに脇の道から入っていった。チベット族が多くいたのは、この日は何かしらの祭事が催される日のようだったからのようだった。彼らは参道を何かが通るのを待っているようだったので、私も一緒になってその何かが通り過ぎるのを待っていた。しばらくすると赤い衣を身に纏った僧の一行がやってきた。最初は旗を持った僧が通り、次に装飾が施された馬、楽器を持った僧、宝物と思われる道具を抱いた僧などが続いた。そのあとで輿に座らされた仏像が通ったとき、見物客たちは歓声を上げてオレンジ色の布を放り投げていた。これが一体何の祭事なのかは見当もつかなかったが、輿が通りすぎると皆散り散りになって帰っていった。私は長い階段を登って本堂を参拝した。中では熱心なチベット仏教徒たちが祈りを捧げていた。チベット仏教には多面多臂の仏が多いため、仏像を眺めているだけで飽きることはなかった。

 

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寺院からはバスターミナルまで歩き、そこから再び麗江へと戻った。この日の夜は夜行列車に乗ることになっていたので駅へ向かおうと路線バスに乗ったが、駅よりも遙か手前のバス停で降ろされてしまった。同じ系統の路線で駅まで行けるはずだったが、仕方がないので駅まで歩くことにした。結局地図を片手に4kmほど歩かされる羽目になり、途中ガリガリに痩せた野良犬が後を付いてくるなど肝を冷やした。そもそも駅に向かう路線バスなど最初から存在しなかったようで、素直にタクシーを使うべきであった。寝台列車に乗り込み、ビールを飲み干すと疲れが出てきてすぐに眠ってしまった。目が覚めると雲南省最大の都市である昆明に到着する頃だった。f:id:bluepony:20170326224706j:plain

1年前の今頃の日記 その4 大峡谷

朝起きて、中国人向けのツアーのオフィスに行った。ここまで来たからにはチベット族の村に行きたいと思ったが、自力で辿り着くのは難しいようだったからだ。オフィスで身振り手振りで手続きをしてからしばらくすると1台のバンがやってきて、10人ほどの乗客とともにそれに乗り込んだ。1時間半ほどバンに乗ったあと、今度はバスに乗り換えさせられ、さらに峠道を登っていった。ツアーだったので道中ではガイドの女性が何やら説明してくれていたようだったが、話の中身については私の知るところではない。

山道を登りきったところで、一行はバスを降ろされた。どうやらチベットの村に着いたようだ。丘の上にチベットの仏塔が建っており、その周囲に色とりどりのタルチョが張り巡らされていた。丘の後方には土でできた住居が点在していた。今でも人が住んでいる村のはずだったが、なぜか住人の姿は見かけなかった。

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30分ほど村を散策したあと、バスは山道を下り、今度は谷まで降りた。ここでは峡谷の岩肌に遊歩道が取り付けられていて、3km弱ほど自由に歩くことができた。川面から渓谷のてっぺんまではどれほどの高さがあるのだろう、少なくともこの壁は私がこれまでの人生で見たどんな壁よりも倍以上は高いと思われる崖だった。このような崖を2箇所ほど巡った。一緒にツアーに参加した女性にシャッターを押して欲しいと頼まれたので何度かシャッターを切った。話しかけられても何を言っているのかわからなかったが、「我是日本人」とだけ言ったら理解してくれて、私の写真も何枚か撮ってくれた。そのあと、またバスからバンを乗り継いでまちへと戻った。

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夕方まちへ戻ったが、この日はまだ何も食べていなかったのでお腹が空いて仕方がなかった。近くにある韓国料理の店が「YAK BAR」という名前だったのでヤク(インドやチベットにいる牛)が食べられるのかと期待していたが、メニューにはなかった。仕方がないので韓国料理を食べながらビールを飲むと、高地から戻ってきただけあって頭痛がした。宿に戻ると、昨日夕食を共にした中国人学生たちはもういなくなっていた。

 

1年前の今頃の日記その3 シャングリラ

朝起きてチェックアウトしようとすると、宿の小姐が「時間があるならお茶でも飲んでいきなよ」と言うので、テラスに上がって共に茶を飲んだ。雲南のお茶はとても濃く、最初に器に注いだお湯は全て捨て、2杯目から飲むらしかった。ちなみにプーアル茶雲南の茶だ。

小姐は少し英語が話せるようで、私たちは片言の英語でしばし雑談をした。これからどこに行くだとか、前にこの宿にやってきた日本人の話をしたり、互いのあいさつや数字の発音の練習をした。小姐は中国の宿がたくさん載った、使い込まれてボロボロになったガイドブックをくれた。指差し会話帳を見ながら「お世話になりました、どうもありがとう」と言うと、どうやら通じたようで笑いながら「いえいえ」と返された。

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宿を出た私はバスターミナルへと向かった。バスのチケットを買うためには窓口で行先を告げる必要があったから、「~まで1枚」というフレーズだけ何度も練習した。その甲斐あって行先は伝わったものの、その後になんだかよくわからないことを言われたので適当に受け流した。どうやら事故に遭った時の保険をつけるかどうかを聞いていたようで、保険付きのきっぷが発券された。保険は不要だったのでその後きっぷを買う時は「保険は不要」というフレーズを付け足した。旅の途中で覚えた唯一の中国語だ。

バスには4時間ほど揺られた。もちろん日本の高速バスのような座席ではなく、幼稚園バスのような硬い座席だ。座席は窮屈だったが、日本では目にすることのない形の山や草原などを眺めていると退屈はしなかった。標高1,800mの麗江からさらに山道を登り、着いたのは標高3,000mほどの香格里拉(シャングリラ)というまちだった。高山病が心配だったので、念のために登山のときによく使われる漢方薬を飲んでおいた。さすがに空が近く感じた。

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香格里拉では日本で見た旅行記に載っていた宿に泊まるつもりだったが、探しても見当たらなかったのでドミトリーに泊まることにした。ドミトリーで同室だった中国人の学生と夕飯に行くことにした。彼が別室にいた上海から来た学生カップルも一緒に誘い、4人で鍋を囲んだ。一人旅では大皿に入った料理を食べることは出来ないからありがたかった。カップルの男のほうが「俺の彼女、かわいいと思うか?」と聞いてきたので、「そう思うよ、日本でもモテる」と返したら女の子の方は照れていてとてもかわいかった。

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食後は皆で近くにあったチベット仏教の寺院に行った。シャングリラはチベット自治区に隣接したまちで、住民のほとんどはチベット族だった。チベット仏教にはマニ車という中にお経が入った筒のような仏具があって、これを1回回すとお経を1回読んだことになるらしかった。この寺院にはこのマニ車を巨大にしたもの(下写真左)があって、10人がかりでがんばってようやく回るものだった。チベット仏教のことはよくわからないが、見知らぬ人とマニ車を回していると不思議な気持ちになった。f:id:bluepony:20170221221320j:plain