2年前の今頃の日記その6 菜の花畑にて

 早朝、列車は雲南省最大の都市昆明に到着した。駅を出ると人や車でごったがえしていて、ここはこれまで滞在した古都とは全く違う場所なのだと気がついた。昆明は日本ではほとんど耳にすることがない都市だが、ここには600万人もの人が暮らしている。昆明駅では2014年には新疆ウイグル自治区の独立を叫ぶ勢力によるテロが発生しており、そのせいか地下鉄に乗る際には空港と同じボディチェックがあって、そこで持っていたハサミを没収されてしまった。ハサミ1本を持って地下鉄でテロ行為を行う者がいるとは思えないが、起きてしまったことの傷痕は深いようだった。

 地下鉄と路線バスを乗り継いで長距離バスターミナルへと向かい、そこから郊外へと向かうバスに乗り込んだ。4時間ほどで目的地の羅平という街に到着した。羅平はおそらく中国の田舎にはどこにでもあるような地方都市で、あまり綺麗ではない商店がいくつも並んでいて、その背後には巷で言われている不動産バブルなのか、都市の規模に不釣り合いな高いマンションがいくつも建設されていた。しばらく歩いてネットで予約していた宿にチェックインしたが、コピーを取るからとパスポートと免許証を預けさせられた。自分の身分を保証しているものを取られると、異国にいる我が身が宙ぶらりんになった気がした。

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 この街に来たのは世界最大と言われる菜の花畑を見るためだった。以前この地を旅行した人のブログでは、菜の花畑に行く乗合いバンは百貨店の前から出ることになっていたが、そこに行っても全く見当たらなかった。しばらく周りを歩いても見つかりそうな気配がなかったので駄目元で路線バスに乗って駅まで向かうと、バンはそこから出ていた。乗り合いバンは5~7人乗り程度のワゴン車で、バスと違って人がある程度集まる度に出発する。利用するのはほとんど地元の人たちだ。彼らは停留所もないようなところ(一応大体の場所は決まっているようだった)で降りていき、終点まで乗ったのは私のほかにもう1人だけだった。

 バンを降りた場所は崖の上にあり、端まで行くとそこから菜の花畑が見下ろせた。これまで生きてきた中で最も黄色い景色だった。ここは牛街螺田というところで、棚田の裏作で菜の花を栽培しているそうだ。だから黄色も平面ではなく、渦巻いた形で広がっていた。このような景色を日本で見ることはおそらく不可能で、中国語も話せない自分がひとりでこんな場所までたどり着けたことを思い返し、小さく拳を握った。

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 ところが、カメラで写真を撮りながらしばらく歩いていると、なんだか聞き慣れた言葉が聞こえてきた。あたりを見回すと、日本語を話す人々が何人もいた。どうやら彼らは中高年向け旅行商品を企画している有名な旅行会社のツアーで来ているようだった。彼らはおそらく高いお金を払って、貸切のバスで観光地を周り、安全なホテルで中華料理を食べているのだろう。そう考えると、中国の辺境の地で日本人に会ったと言うのに、同じ場所に至るまでのプロセスが違いすぎて不思議と全く親近感が沸かなかった。彼らの旅にはお金がかかりすぎるし、私の旅には手間がかかりすぎる。

 帰りのバンに乗っている途中、車は菜の花畑の真ん中で停まった。不思議なところで降りる人もいるのだなと思っていると、私も降りるように促された。どうやら景色が綺麗だからしばらく見て行けと言っているようだった。私の手間がかかる旅にはガイドがいないから、この粋な計らいはありがたいものだった。

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 一面の菜の花畑をしばらく堪能した後、ふたたびバンとバスを乗り継いで宿に戻った。宿に戻ると、主人がパスポートと免許証を返してくれたので、夜は安心して眠ることができた。

エモいと思う瞬間について考えてみた

 これまで若者言葉のエモいという言葉を使ったことは一度もないし、そもそもエモいという言葉の意味をよく知らない。ただ、中途半端にエモはエモーショナルの略だということは知っていて、何かを感じたときに「感情を動かされる」なんて感想を言うなんておかしなことだなあと思う。感情を表現する言葉なんてたくさんあるのに。

 一方で、若者言葉を理解できないということは早くも老いに片足を突っ込んでしまっているようなものだという思いもあるから、遅ばせながら、このあたりで自分の中でエモいという言葉で言い表すのが妥当な感覚を10個ほど探してみたいと思う。エモいという言葉の定義は下の記事を参考にして、「うまく説明できないけれどなんかいい」と考えることにした。

独身を幸せにする「エモい」という感情の正体 | ソロモンの時代―結婚しない人々の実像― | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

○エモいと感じる事象たち

①一人旅をしている最中に訪れた映画館から、映画を見終わって出る時。周囲から隔絶された箱の中で映画(=非日常的なもの)を見て感傷的な気分になり、そこから外に出ると知らない街の景色(=映画と同様に非日常的なもの)が広がっており、非日常的な出来事の連鎖に頭の整理がつかずにクラクラするような、それでいて心地よい感覚。

 

②深夜のローカル線に乗っている時。気がつくとあたりは暗く、民家の灯りもほとんど見当たらない。汽車は乗客もまばらに終着駅に向かって走る。窓に映るのは自分の顔。これについては前回のブログにも書いた。これはエモいという感情なんだろうと思う。

 

③海に沈む夕日。空は茜色、日没が近づくに連れて赤い太陽がだんだん下に落ちてきて、大きくなってくる。太陽が半分ほど沈むと、ちょうど海に反射して丸い形になる。沈みきったあとはだんだん茜色の面積が減ってきて、これから夜が訪れるんだということがわかる。帰り道はもう夕闇の中。夕飯のことを考え始める。

 

オセアニアの南の島に行った時に乗ったボート。公園の池で漕ぐようなボートにモーターを付けて、簡単なジャケットだけ羽織って乗り込んだ。目的地は15kmほど離れた別の島で、その間ボートは全速力で大海原を横切った。波が来るたびボートは文字通り飛び、何度も振り落とされそうになった。最初はそれが怖かったが、そのうちなんだかおかしくなってきて笑いながら叫んだ。

 

⑤中国の焼豆腐屋で豆腐を食べていた時、店主の老爺から酒を進められ一緒に飲んだ時。焼酎のような強い酒を原酒のまま飲まされ、強さに驚くと老爺は笑っていた。中国語は一切わからなかったが、笑いながら何杯か飲んだ。ほろ酔いでホステルに帰った。

 

⑥中学生の頃、部屋の電気を消して親にバレないように隠れて見ていた深夜アニメ(少しエロチックで、それほど知名度のないもの)の主題歌をふと大人になってから聴いた時の感覚。当時は恋愛などしたことがなかったから、これが思春期の思い出。

 

⑦好きだった異性と電話して夜明けを迎えた時のこと。当時は寮に住んでいて、その内線電話で話していた。行こうと思えばすぐに行って話せる距離だったが、そんな関係性でもないし度胸もなかったから、電話で話し続けた。どこまでも会話が終わらないということの悦びを知った夜だった。

 

⑧受験が終わった日、就職活動が終わった日、論文を提出した日など、抑圧から開放され未来が明るく見えた日のこと。

 

⑨ロックフェスで昼間からビールを飲んでいる時。屋外で風が心地よい日なら尚更。

 

⑩情緒的な気分になる楽曲を聞いている時。2017年のエモい楽曲は以下の5曲。

Spitz/1987→

小沢健二/流動体について

・Nulbarich/In Your Pocket

・Yogee New Waves/HOW DO YOU FEEL?

・スカート/静かな夜がいい

 

こんなところでしょうか。思ったよりも考えるのに時間がかかってしまいました。みなさんがエモいと思う瞬間についても教えていただければ楽しいです。

ローカル線に乗って

 学生時代、私がひとりで行く旅は全て日本の、それもほとんどの場合は田舎を訪れるようなものだった。いくつか行きたい場所をリストアップして、青春18きっぷで何泊かかけてそれらを結んで回る。当然結んだ点と点の間にもどこかしら魅力的な場所があるから、そこにも立ち寄る。目的地になる場所は温泉や史跡、伝建地区、鉱山や鍾乳洞などが多い。特に何もない漁村や農村に行くこともある。時間はあるが金はないので、長く旅を続けるために宿泊施設にはこだわらずにできるだけ安いところを選ぶ。食事は1日1回だけ贅沢をして、ほかの2食は適当なパンやおにぎりで済ます、とだいたいこのような具合だった。

 ところで、ローカル線にばかり乗って旅をしていると、どうしても移動にかける時間が長くなる。そうなると、車窓を眺めるか、持ってきた文庫本を読むか、寝てしまうかくらいしか選択肢がなくなる。しかし後から振り返ってみると、訪れた場所と同じくらいそのような時間のことも案外覚えているものだ。

 山口の萩から島根の出雲まで日本海沿いに走る汽車に乗ったときのことだ。この道中には益田、浜田、江津、大田と4つのまちがあるが、それ以外はほぼ山の中を走る。しばらく車窓を眺めていると、山口と島根の県境あたりからトンネルが多くなる。トンネルを抜けると山の下には小さな浜が現れる。浜を見下ろすと、山の方から浜の中心に向かって1本の川が流れていて、それにしたがって三角州が形成されているのがわかる。傾斜がきつい山際は段々畑になっているが、海の近くには20~30軒ほどの家が、車も通れないほどびっしりと軒を連ねているのが見える。漁村が見えると駅があって汽車が停まり、出発するとすぐにまたトンネルの中に入る。トンネルを抜けるとまた漁村があり、ああそろそろ駅だなと気がつく。それを繰り返しながら汽車は進んでいく。だが、たまに漁村が見えても駅がない場合もある。そうするとひとつの疑問が浮かぶ。この漁村に住んでいる人々は、一体どうやって移動するのか、と。今では線路とほぼ並走するように国道が走っているから、そこまで車で登ってしまえばどこへでも行けるだろう。しかしここに人が住むようになったのはまさか国道ができた後ではあるまい。他の漁村とてそれは同じことで、道路が整備されたり鉄道が通ったりするよりも前からそこは既に漁村であったに違いない。そうすると、移動手段は自ずと限られてくる。舟だ。舟しかない。それも今ならモーターがあるが、ずっと昔は手漕ぎの舟だったはずだ。ここに住む人々は、何か行事があれば、他の浜やもっとのその先まで、陸ではなく海の上を移動して暮らしていたはずだ。それぞれの浜は独立しているが、人々は舟で行き来をしていたはずで、そうすると一体どこの浜が最もプレゼンスが高いのか、浜の間に権利をめぐる争いなどはなかったのか、祭礼は合同で行っていたのか、など新たな疑問が次々と浮かんでくる。そうしたことは、そのあたりの図書館で民俗史を読めばすぐにわかるはずだ。私はいっそのこと何もない漁村の駅で汽車を降りて確かめてみようかと考えたが、なにしろ本数の少ない路線だったから、そのまま次の目的地へと向かった。こんなことを考えるのがローカル線での旅の醍醐味だと思う。

 また別の時の話だ。私は岩手の盛岡から青森へと向かおうとしていた。盛岡は都会だから、列車が出発した19時台には会社や学校帰りの客が多く乗っていた。だが30分も乗っていると車内は閑散としてきて、窓の外の灯りも次第に減っていった。私はしばしうたた寝をしていて、ふと目を覚ますと汽車は山の中を走っており、既に車内に人影はなかった。窓の外は暗闇で、私の顔だけが映る。このようなときは、世界に自分だけしかいないような気分になって、とても心細くなる。それでも汽車がぎゅいんと力強い唸りを上げて峠を登る音を聞くと、実は強いものに守られているのではないかと思い直して少し元気になる。この汽車は私が行きたい目的地までは行かないもので、その後の時間にはもう後続の汽車はなかった。それで私は終着駅の少し前の無人駅で汽車を降りた。ホームから汽車が過ぎ去り、小さくなっていく赤いテールライトを眺めながら、今度こそ本当に自分はひとりぼっちになったと思った。ただ虫の声が鳴くばかりのホームで、寂寞の思いに駆られてうっかり涙を流すところだった。

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街が消えるということを想像できるか

 ある小さな島を訪れた。この島を仮にS島と呼ぼう。私がS島を訪れたのは、たまたま近くを通りかかった際、まちの観光パンフレットで存在を知ったことがきっかけだった。S島はかつて捕鯨をしていたところで、島にある小さな博物館にクジラの骨格が展示されているという。既に午前中のうちに目的の場所を訪問し終え、暇を持て余していた私は、ただ巨大な哺乳類の骨格を眺めるためにS島に渡った。

 渡った、と言っても、S島には本土から橋がかかっており、車で行くことができる。その白い大きな斜張橋が開通したのは20年ほど前のことで、それ以前は船を使わないと島には辿り着くことができなかったそうだ。S島に渡り、沿岸の道路から逸れて山を少し登ったところに博物館があった。館内には、初老の男性がひとり、靴を脱いで机に足を投げ出しながら座っていた。定年を迎えた地元住民が役場の教育委員会から雇用されているのだろう。私が入って来るのを見るや、彼はいらっしゃいと言ってすぐに姿勢を正し、私の元へ寄ってきて語り始めた。

 彼は言う。今はもう見る影もないが、かつてここは炭鉱で栄えた島であると。炭鉱では明治末期から採掘が始まり、戦後の高度経済成長期まで続けられていた。炭鉱は財閥系企業の手によって開発が進められた。何千人もの坑夫たちが雇用されて移住してきたため、島にはアパートが何棟も建設され、団地が形成された。小学校や中学校は1学年10クラスを超える、県下でもいちばんのマンモス校となった。また、坑夫やその家族たちの生活を支えるために、日用品を販売する店が軒を連ねたし、映画館も4館、それからこういう街には付き物の遊郭なども建てられた。離島ではあるが、S島には紛れもなく都市の生活のような華やかな暮らしがあった。他方で、炭鉱での労働は常に危険と隣り合わせの過酷なものでもあった。彼らの働きは戦後の高度経済成長の時代の原動力となったが、その頃になるとエネルギー源としては石油が台頭してきたこともあり、石炭産業はその役目を終えることとなった。今から50年ほど前に鉱山が閉山となると、それまで住んでいた人々のほとんどがS島を離れていった。S島は炭鉱以外には産業がなかったため、みるみるうちに島は廃墟だらけになった。その廃墟も解体が進み、10年ほど前までは何棟か残っていたアパートも、今では影も形もなくなり、すっかり更地となった。残っているのは坑口の跡や煙突などのほんのわずかな遺構と、往時を知る数少ない住民の記憶だけだ。

 彼は当時の街の様子が写された写真集を見せてくれた。地図を指差しながら、この場所はこのあたりで、今は何もない場所だが、昔は数え切れないほどのアパートが建っていただとか、そのような話をしてくれた。私はS島のことをよくあるような田舎の離島のひとつ程度にしか思っていなかったため、彼の話にはたいへん驚かされた。ポーンペイでもあるまいし、ひとつの都市があったのが、今では跡形もなくなり、その存在すらほとんど知られていないということが、にわかには信じ難かった。

 S島と成り立ちが似たような場所としては、世界遺産にもなった軍艦島がある。軍艦島もかつて炭鉱として栄えた島だ。今では誰ひとりとして住んでいないにも関わらず、かつて栄えた街が当時のまま残っていて、まるごと廃墟と化した街の姿は見る者を驚かせる。軍艦島の炭鉱も、S島の炭鉱も、ほとんど同じような歴史を歩んできたが、軍艦島は廃墟がそのまま残っているのに対し、S島は正反対で全く何も残っていない。この点で2つの島は大きく異なる。視覚的にインパクトがあるのは間違いなく軍艦島の方で、廃墟マニアでなくとも、多くの人は1度くらいあのまるごと廃墟となった島を訪れてみたいと思うだろう。S島にはそういった廃墟はなく、博物館でも訪れなければ、かつて炭鉱が存在したということにさえ気が付かないだろう。しかし、だからこそ、ここでは想像力が試される。更地を目の前にして、かつてこの地に巨大な街があり、それが消えたということを想像できるか。街が造られ、そして消えたという事実は、そのこと自体が、私達が歩んできた近代化という時代の荒波の痕跡なのだ。眼前の更地で時折風にそよぐ夏草の姿を見ていると、名句の一節が脳裏に浮かび、これもまた夢の跡とでも言うべき人間の儚さなのだろうと感ぜられた。

夏の日の突き抜けるような青い空にひこうき雲が

 何度も飛行機に乗っているうちに、昔は離着陸のときは緊張してばかりいたのが、いつの間にか何も感じぬようになってしまった。しかし、飛行機のちっぽけな窓から外を眺めることだけは、何度乗っても飽きないままだ。機体が上方に傾くとともに空港や付近の建物はみるみるうちに小さくなっていき、確かあの道路を通って空港まできたはずだなどと思っていると、いつの間にか機体は雲の中に達している。

 雲を眺めていると、空の中にも高さがあるのだということがよく分かる。今通っているのは積雲だが、そのだいぶ上にひつじ雲やうろこ雲があるから、空の上にもまたさらに空が続いているのだろう、といった具合の話だ。もちろん我々は、雲には上層雲から下層雲まであって、出現する雲の種類は高さによって違う、くらいのことは朧げに覚えている。だが、知っているということと身をもって知らされるということは全く違っていて、空に高さがあるということを知らされることではじめて、空の高さの様子を楽しむことができるようになるのだろうと思う。

 ところで、私が最も好きな雲はひこうき雲なのだが、残念なことにこればかりは飛行機からは眺めることができない。ひこうき雲は力強く進む飛行機が通った道筋にできるが、できた瞬間から徐々に薄くなり、やがて消えてしまう。青い空に流れる一筋のひこうき雲は強くて儚い。尾翼から流れていくひこうき雲を機上から眺めることができればよいのだが、それが叶わないのは自分の過去を振り返ることができないのと同様のことだろう。

 

典型的な朝の話

1軒目の居酒屋を出たあと、連れられるがままに2軒目へと向かった。2軒目も当然居酒屋に行くものとばかり思っていたが、入ったのは厚化粧した女性がいるスナックだった。私は女性の話を全く聞かずに適当に相槌を打ち、できるだけどうでもいい曲を選んでカラオケを歌い、少し飲むとすぐにまた注がれる水割りの焼酎を飲み続けた。日が変わる頃に家に帰ったが、思いの外酔いが回ってきてそのままベッドに倒れ込んだ。

酒をたくさん飲むと眠りが浅くなる。4時頃にふと目が覚め、それからしばらく眠れなくなるのはいつものことだった。私が住む街は日が昇るのが遅いが、それでもこの季節になるともう空は明るかった。ひと月前と比べると気温もだいぶ高くなり湿気が多かったので、窓を開けてまた横になった。

5時頃になると、徐々に街が朝を迎える。駅のすぐそばにある部屋には様々な音が勝手に届けられる。始発の電車が出ることを告げるアナウンスに続いて、電車が走る音が聞こえる。この時間の電車に乗る人はごく少ないが、それでも何人かの人々は用事を済ますか、あるいは夜勤を終えて家に帰るために電車に乗っていることだろう。そんなことを考えながら、私は再び微睡みはじめた。

7時頃になってアラームが鳴り、何度かスヌーズを繰り返したところでベッドから出た。アラームで流す曲は定期的に変えているが、今使っているのはFlipper's Guitarの「すてきなジョイライド」という、宇宙旅行に向かう曲だ。私はシャワーを浴びて、うどんを茹でる傍ら作り置きしていたおかずを弁当箱に詰めた。私は朝にうどんを食べるのが好きだ。うどんには溶き卵と、ミンチ天かさつま揚げを入れる。朝食を終えるとまたひと眠りしたくなるところだが、いつものように着替えて職場へと向かった。

1年前の今頃の日記その5 チベット寺院にて

起きてから宿を出ようとするが、宿主が見当たらない。いつもロビーに居候している男(彼は私を見かけるたび「コニチハ!」と話しかけてきた)に尋ねると、スマホの翻訳機能を使って「boss go out」と教えてくれた。いつ戻って来るのかもわからないというので途方に暮れるところだったが、彼が精算の手続きをしてくれるようだった。彼には釣り銭の手持ちがなかったので、他の部屋に宿泊している旅人からお金を借りてきて、それで建て替えてくれた。彼と旅人に礼を言ってから温かい気持ちで宿を出た。広場でチベット族の老婆がパンとミルクを売っていたので買って食べた。パンはバサバサしていて、ミルクも甘ったるく、おまけに500円も取られたが、いい気分だった。

路線バスに乗って、ポタラ宮のような見た目をした寺院に向かった。途中からチベット族の人々が続々と乗ってきてバスは満員だった。寺院に着くと私は2,300円の観光客用チケットを購入したが、彼らはお金を払わずに脇の道から入っていった。チベット族が多くいたのは、この日は何かしらの祭事が催される日のようだったからのようだった。彼らは参道を何かが通るのを待っているようだったので、私も一緒になってその何かが通り過ぎるのを待っていた。しばらくすると赤い衣を身に纏った僧の一行がやってきた。最初は旗を持った僧が通り、次に装飾が施された馬、楽器を持った僧、宝物と思われる道具を抱いた僧などが続いた。そのあとで輿に座らされた仏像が通ったとき、見物客たちは歓声を上げてオレンジ色の布を放り投げていた。これが一体何の祭事なのかは見当もつかなかったが、輿が通りすぎると皆散り散りになって帰っていった。私は長い階段を登って本堂を参拝した。中では熱心なチベット仏教徒たちが祈りを捧げていた。チベット仏教には多面多臂の仏が多いため、仏像を眺めているだけで飽きることはなかった。

 

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寺院からはバスターミナルまで歩き、そこから再び麗江へと戻った。この日の夜は夜行列車に乗ることになっていたので駅へ向かおうと路線バスに乗ったが、駅よりも遙か手前のバス停で降ろされてしまった。同じ系統の路線で駅まで行けるはずだったが、仕方がないので駅まで歩くことにした。結局地図を片手に4kmほど歩かされる羽目になり、途中ガリガリに痩せた野良犬が後を付いてくるなど肝を冷やした。そもそも駅に向かう路線バスなど最初から存在しなかったようで、素直にタクシーを使うべきであった。寝台列車に乗り込み、ビールを飲み干すと疲れが出てきてすぐに眠ってしまった。目が覚めると雲南省最大の都市である昆明に到着する頃だった。f:id:bluepony:20170326224706j:plain