二十の私はもういない

 久しぶりに、坂口安吾の『風と光と二十の私と』を開いた。初めて読んだのは20歳のときで、確かTwitter坂口安吾botに紹介されたどこかの一節に惹かれて本を手にしたのだったと思う。安吾の文章を読むのはその時がはじめてで、あるときは他者に寄り添い、またある時は突き放したような態度を取る彼の文体は鮮烈に印象に残るものだった、はずだった。

 ところが、数年経ってから再び読み返してみると、どうしてもはじめて読んだときのことが思い出せない。30ページに満たないこの短編をそもそも読破したのかさえも危ぶまれるほどに、内容も、当時抱いたはずの感想も、全く思い出せなかったのだ。安吾の20歳を書いたこの短編を、それと同じ20歳のときに、確かに読んだはずだった。だから私は今日、たぶんはじめて読んだ時もそうであったように、全てを見通したような安吾の文体を新鮮な驚きを以って迎えたし、いずれこのような文章を書いてみたいとも思ったのであった。

 ただ、それと同時に私は苛立ちを覚えずにはいられなかった。たった数年前に読んで感銘を受けたはずの文章に対して、なぜそのときの記憶を蘇らせることができないのか。きっと今こうして考えていることも、数年経てば思い出すことはできなくなるのかもしれない。私は成人式のことはよく覚えているが、20歳の頃見えた世界を想起することはもはやできなくなってしまったし、今見える世界は、そう遠くない未来、ちっとも気がつかないうちに全く別のものへとすげ替えられてしまうのだろう。その時々の考えをブログや日記などに書き留めておくことはそれに対する抵抗になるかもしれないが、その抵抗に何か意味があるのかと問われると、答えに窮してしまう。