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ノスタルジア

 都内で催された大きな市に行った。毎年決まった日に行われる骨董市のようなもので、もう400年以上もの歴史があるらしい。私は想定していたよりもずっと窮屈な人混みに流されながら、古着や雑貨、骨董品や玩具などが並んだ露店を眺めていた。

 露店の品物や、それを手にとっている客を見ているうち、私はあることに気がついた。並べられている品物が、どれも「懐かしすぎる」のだ。それは私にとっての「懐かしさ」ではなく、市にやって来る客のボリューム層と思われる50~60代くらいの人々にとっての「懐かしさ」である。それらは古くて価値があるものというよりは、「懐かしさ」という記号にのみ価値を見出すことができるような品々であるように私には思われた。そう思った瞬間から、商品を眺める私の目は急に冷ややかなものになっていってしまい、財布の紐が動くことはなかった。

 以前にも、同じようなことを思ったことがあった。知人と大きなショッピングモールに行ったときのことだ。そのショッピングモールには「昭和の香り」がすることを売りにした○○堂という駄菓子屋があって、私たちは帰りしなにそこへ立ち寄った。店は内装を木で統一していて、ちびまる子ちゃんに出てくるみまつやのような見た目をしている。そこで、彼は木箱に山のように並べられた駄菓子をひとつひとつ指差しながら、あれもこれも懐かしいね、なんてことを言った。曖昧に同意しておいたが、私にとってこの駄菓子屋は居心地が悪かった。確かに私が小さい頃までは必ずまちに駄菓子屋はあったし、売っているお菓子も見覚えのあるものばかりだった。だが、私たちは「昭和の香り」とは無縁のはずだった。にも関わらず、そのときの彼の口ぶりは、その「昭和の香り」まで含めて懐かしいね、と言っているように聞こえるものだった。経験していないことに対して「懐かしさ」を感じるというのはおかしなことだ。きっと彼は、どこかで「昭和の装い=懐かしさ」であると無意識のうちに刷り込まれていたに違いない。気が付くと、彼は袋いっぱいの駄菓子を買い込んでいた。私も麩菓子を買って食べた。

 いつの頃からか、「懐かしさ」は消費の対象になってしまったようだ。それを批判したりするつもりはないが、マーケティングの道具として使われる「懐かしさ」と、自分の過去の思い出を混同してしまうなら、ほんとうに大切な記憶を葬ってしまうことになりかねない。それはとても寂しいことだ。