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ひなびていた

 温泉に行きたいという気持ちが、他の全ての行為をつつがなく行おうという気持ちよりも上回ってしまった。ここ最近はあちこちを移動していたのだが、風呂に関してはあまり恵まれてこなかったのだ。湧き上がってきたこういう気持ちは実際に温泉に行かないかぎり静まることはないから、すぐに時間を作って電車に飛び乗った。本当なら温泉宿に泊まってゆっくりと羽根を伸ばしたいところだが、そこまでの金と時間を持ちあわせていたわけではなかったので、日帰りで向かうことにした。

 ホームで待っていた温泉行きの電車は2両編成だった。むかし都心を走っていた電車を改造してこしらえたものらしかったが、今ではすっかり田園風景に馴染んでいるように見えた。乗客もまばらな昼下がりの電車はコトコトと音を立てて走った。私は持ってきた文庫本を広げていたが、いつの間にか舟を漕いでいたようで、目が覚めたのはもうすぐ終点というところだった。始発駅も山の端なら、終着駅も山の端だった。電車を降りると送迎バスが待っていて、ほかの乗客は皆吸い込まれていった。温泉まではそう遠くないはずなので、私は駅に置いてあった地図を片手にひとりで歩いていくことにした。

 私は温泉それ自体と同じくらい温泉街のことも好きだ。とくに、街中にある共同浴場、すなわち外湯を中心に形成された温泉街が好きで、今回行った場所もまさしくそのような街だった。外湯が好きなのは、入浴客がひとつの旅館の中だけにとどまることなく、必ず街の中を歩くことになるからだ。すなわち、そこには温泉を中心として旅館、飲食店、土産物屋やその他の店などが並ぶことになる。気の利いたところだとそれに加えて古いパチンコ屋や射的場などがあることもある。こういうところは大抵「ひなびた」という形容詞で語られることが多い。「ひなびた」を構成しているものは、歳を重ねた木造旅館、時代に取り残された土産物屋の黄色い看板、朱に塗られた欄干、もうあまり手入れされなくなった小さな神社など、数えても数えきれない。こうしたものをひとつひとつ探して歩くことが、「ひなびた」温泉街を散策する楽しみなのだ。

 ところで、この「ひなびた」ということばは、どういうわけかもっぱら温泉街に対してのみ用いられているような印象を受ける。おそらくこれは、各地の温泉街が昭和60年ごろに最盛期を迎え、その後入浴客を減らしつつあるということと無縁ではないように思う。昔は温泉街にもたくさんの人が来て賑わっていたのに、その頃と比較すると今はもうあまり人が来なくなってしまった。しかし、言い換えればそのことによって温泉街は落ち着いた雰囲気を醸し出す場になったと肯定的に評価することもできる。このような、「少し時代遅れで野暮ったいけれども、静かで落ち着いてのんびりできる」温泉のことを、「ひなびた」ということばを使って表すことにしたのかもしれない。

 さて、そんなことを考えているうちに共同浴場へとたどり着いた。浴場は瓦屋根の重厚な佇まいをしていた。入浴料は150円と安い。経験則上、だいたいこういう温泉の番台は決まって無愛想だと思っていたのが、予想に反してとても愛想がよかった。浴場は石鹸も置いていなければシャワーもない簡素なものだった。湯は熱い。足先からゆっくりと体を沈めていって、首まで浸かったところでぶるぶると身震いをした。そのまま20分ほどじっと浸かっていたら、体中の余計なものが少しずつ抜けていくような気がした。そう思うことができればここに来た目的は果たされたと言えた。帰りの電車でも寝てしまい、気がついたら都会の喧騒に戻ってきてしまったが、肩は驚くほど軽かった。やはり温泉には定期的に行かねばならぬ。