街が消えるということを想像できるか

 ある小さな島を訪れた。この島を仮にS島と呼ぼう。私がS島を訪れたのは、たまたま近くを通りかかった際、まちの観光パンフレットで存在を知ったことがきっかけだった。S島はかつて捕鯨をしていたところで、島にある小さな博物館にクジラの骨格が展示されているという。既に午前中のうちに目的の場所を訪問し終え、暇を持て余していた私は、ただ巨大な哺乳類の骨格を眺めるためにS島に渡った。

 渡った、と言っても、S島には本土から橋がかかっており、車で行くことができる。その白い大きな斜張橋が開通したのは20年ほど前のことで、それ以前は船を使わないと島には辿り着くことができなかったそうだ。S島に渡り、沿岸の道路から逸れて山を少し登ったところに博物館があった。館内には、初老の男性がひとり、靴を脱いで机に足を投げ出しながら座っていた。定年を迎えた地元住民が役場の教育委員会から雇用されているのだろう。私が入って来るのを見るや、彼はいらっしゃいと言ってすぐに姿勢を正し、私の元へ寄ってきて語り始めた。

 彼は言う。今はもう見る影もないが、かつてここは炭鉱で栄えた島であると。炭鉱では明治末期から採掘が始まり、戦後の高度経済成長期まで続けられていた。炭鉱は財閥系企業の手によって開発が進められた。何千人もの坑夫たちが雇用されて移住してきたため、島にはアパートが何棟も建設され、団地が形成された。小学校や中学校は1学年10クラスを超える、県下でもいちばんのマンモス校となった。また、坑夫やその家族たちの生活を支えるために、日用品を販売する店が軒を連ねたし、映画館も4館、それからこういう街には付き物の遊郭なども建てられた。離島ではあるが、S島には紛れもなく都市の生活のような華やかな暮らしがあった。他方で、炭鉱での労働は常に危険と隣り合わせの過酷なものでもあった。彼らの働きは戦後の高度経済成長の時代の原動力となったが、その頃になるとエネルギー源としては石油が台頭してきたこともあり、石炭産業はその役目を終えることとなった。今から50年ほど前に鉱山が閉山となると、それまで住んでいた人々のほとんどがS島を離れていった。S島は炭鉱以外には産業がなかったため、みるみるうちに島は廃墟だらけになった。その廃墟も解体が進み、10年ほど前までは何棟か残っていたアパートも、今では影も形もなくなり、すっかり更地となった。残っているのは坑口の跡や煙突などのほんのわずかな遺構と、往時を知る数少ない住民の記憶だけだ。

 彼は当時の街の様子が写された写真集を見せてくれた。地図を指差しながら、この場所はこのあたりで、今は何もない場所だが、昔は数え切れないほどのアパートが建っていただとか、そのような話をしてくれた。私はS島のことをよくあるような田舎の離島のひとつ程度にしか思っていなかったため、彼の話にはたいへん驚かされた。ポーンペイでもあるまいし、ひとつの都市があったのが、今では跡形もなくなり、その存在すらほとんど知られていないということが、にわかには信じ難かった。

 S島と成り立ちが似たような場所としては、世界遺産にもなった軍艦島がある。軍艦島もかつて炭鉱として栄えた島だ。今では誰ひとりとして住んでいないにも関わらず、かつて栄えた街が当時のまま残っていて、まるごと廃墟と化した街の姿は見る者を驚かせる。軍艦島の炭鉱も、S島の炭鉱も、ほとんど同じような歴史を歩んできたが、軍艦島は廃墟がそのまま残っているのに対し、S島は正反対で全く何も残っていない。この点で2つの島は大きく異なる。視覚的にインパクトがあるのは間違いなく軍艦島の方で、廃墟マニアでなくとも、多くの人は1度くらいあのまるごと廃墟となった島を訪れてみたいと思うだろう。S島にはそういった廃墟はなく、博物館でも訪れなければ、かつて炭鉱が存在したということにさえ気が付かないだろう。しかし、だからこそ、ここでは想像力が試される。更地を目の前にして、かつてこの地に巨大な街があり、それが消えたということを想像できるか。街が造られ、そして消えたという事実は、そのこと自体が、私達が歩んできた近代化という時代の荒波の痕跡なのだ。眼前の更地で時折風にそよぐ夏草の姿を見ていると、名句の一節が脳裏に浮かび、これもまた夢の跡とでも言うべき人間の儚さなのだろうと感ぜられた。