スピッツの「窓」についての一考察~「ワタリ」と『或る崖上の感情』

●NEW MIKKEと「ワタリ」

 6月~9月まで各地を回り、先日劇場・オンラインでの上映を終えたSPITZ JAMBOREE TOUR 2021"NEW MIKKE"。セットリストはコロナにより途中で中止となってしまったアルバムツアーと近かったが、コロナ前のセットリストには含まれていなかった曲で、かつ今回の公演で最も異彩を放っていた曲が「ワタリ」であると言っても過言ではないだろう。

 「ワタリ」は2005年1月にリリースされた11作目のアルバム『スーベニア』の中に収録されている曲で、おそらくライブで演奏されたのは同年のアルバムツアー"あまったれ2005"以来16年ぶりだったと思われる。なぜこの曲が久々にセットリストに選ばれたのかはわからないが、生演奏では聞き慣れぬ疾走感のある前奏が響き渡り、数小節ののちそれが紛れもなく「ワタリ」であると確信するや、私は心に生えた羽でぴあアリーナMMから横浜の海へ飛び立ちたい衝動をこらえるので精いっぱいだった。

 

●「ワタリ」と梶井基次郎『或る崖上の感情』

 「ワタリ」はイントロの疾走感、イントロから連続したテンポだがどこか閉塞感があり悶々とした表情のAメロ、その後「もう二度と会えないそんな気がして」と来た後で、急に視界が開けたように「心は羽を持ってる この海を渡ってゆく」だけの短いサビ。この曲の中で私が好きなのは、この後の2番の冒頭の歌詞で日常のシーンに戻って「寂しい黄昏に泣けるぜいたく」(かなり詩的だ!)に続く「電車の窓から見かけた快楽」というフレーズだ。私がなぜこのフレーズを好きなのかと言うと、スピッツの歌詞によく登場する「窓」という単語の意味を解釈するひとつの手がかりが、「ワタリ」の「窓」にはあると考えているからだ。

 「電車の窓から見かけた快楽」とは、一体どのような意味なのだろうか?このフレーズを聞いて思い出すのが、梶井基次郎の小説『ある崖上の感情』(1931)である。この小説の中には、窓を通してその中にいる人間を眺めることを趣味としている青年生島と、彼の話をカフェで聞く青年石田が登場する。生島は冒頭のシーンで「僕が窓を見る趣味にはあまり人に言えない欲望があるんです。それはまあ一般に言えば人の秘密を盗み見るという魅力なんですが、僕のはもう一つ進んで人のベッドシーンが見たい、結局はそういったことに帰着するんじゃないかと思われるような特殊な執着があるらしいんです。いや、そんなものをほんとうに見たことなんぞはありませんがね」と語る。これを聞いた石田は「それはそうかもしれない。高架線を通る省線電車にはよくそういったマニヤの人が乗っているということですよ」と返す。「電車の窓から見かけた快楽」というのは、この小説で言及されているような「電車の窓から見えた家の窓の中にベッドシーンを認める」ということなのではないだろうか。

 この小説が書かれた90年前の状況と現代を同じ尺度で比べていいのかという問題はさておいて、電車の窓からそんなものを見ようとする人って本当にいた、あるいは、現にいるのだろうか?倫理的なことはすべて棚に上げ、もし自分がそのマニアになったと仮定して、毎日電車から窓の外を凝視したとしても、おそらくそんなシーンに出会うことはないだろうし、幸運にもその行為の最中で、かつ隠されていない窓の横を通ったとしても、時速数十キロ出ている電車の窓からは、それが求めていた行為だとはっきり認めることは難しいだろう。そう考えると、「電車の窓から見かけた快楽」というフレーズの中には、普通は見えそうにないものが奇跡的に見えた、というニュアンスも含まれているような気がする。

 ちなみに、「ワタリ」の歌詞は「寂しい黄昏に泣けるぜいたく 電車の窓から見かけた快楽」に続いて「寂しい黄昏に泣けるぜいたく ガクに収まった世界が軋む」となっており、「窓」と「ガク」は対応する関係になっている。「それでも掟を破っていく 黒い海を渡っていく」というサビを前に、ベッドシーンを見かけた「窓」は世界を切り取る静的な存在から、動きを持つ存在へと変化していく。

 

●「ワタリ」の「窓」と「無常感」

 『ある崖上の感情』では、石田青年は最初は窓を覗くことにさほど興味を持っていなかったのに、後から生島青年の話がどうしても気になってしまい、日がな生島青年から教えられた崖の上を訪れ窓の中を覗き見ることをやめられなくなってしまう。ある日、彼は眼下に広がる複数の窓の一枚の中に、まさしく自分が求めていたベッドシーンが展開されている姿を目撃する。だが、これと同時に、別の窓の中に人が死ぬ瞬間を発見してしまう。この2つの瞬間を同時に目にしたとき、生島青年は「もののあわれ」というような気持を超した、ある意力のある無常感」を覚える。すなわち、窓の中を覗くことは巨大な「無常感」の存在に触れることであり、その構成要素を代表するものとして作中で挙げられているのが「セックス」と「死」なのだ。

 スピッツ好きの方なら既にお気づきかもしれないが、「セックス」と「死」といえば、1994年5月「空も飛べるはず」をリリースしたころのロッキング・オン・ジャパンのインタビュー上で草野マサムネ本人が「すごく単純に、俺が歌を作るときのテーマって、"セックスと死"なんだと思うんですよ」と発言していることと共通性がある。これは、「セックス」も「死」も、子供のときは畏れの対象であり、大人になるにつれてそれに対する捉え方は変化していくけれども、だからといってはっきりと理解することはできないものであり、故に物語や曲の対象となり続ける、という文脈での話だった(蛇足だが、この発言を踏まえると、最近の曲では「死」のベクトルが強まり、「セックス」は相対的に主題になりづらくなっていると解釈できるかもしれない)。

 上記のことを踏まえると、「ワタリ」の中での「電車の窓から見かけた快楽」とは、「セックス」や「死」によって構成される「無常感」に偶然触れてしまったということ、そしてその「無常感」は「ガクに収まった世界が軋む」というフレーズによって「窓」から解き放たれ、「無常感」を世界を見る物差しとして獲得してしまった、という意味だと考えられるのではないだろうか。そしてこのことが、心に生えた羽で海を渡ることができるというサビの歌詞の動力となっているのだと、私は解釈する。また、ここではほとんど触れなかったが、「寂しい黄昏に泣けるぜいたく」のように、自分の感情と正しく向き合うための条件のひとつだったのだろう。

 

スピッツ「窓」の分類

 『或る崖上の感情』を起点に考えると、「ワタリ」以外にもスピッツの曲の中で頻繁に登場する「窓」という単語の中にも、「セックス」や「死」を内包した移ろいゆく「無常」との邂逅を果たす場所としての意が込められているのではないかと想像できる。だが、装置としての「窓」に働く力は常に同一のものではない。複数の曲に登場する複数の「窓」について考えるためには、「窓」をめぐる権力関係、すなわち、自分自身が「窓」の外側にいて中を見る、または中から外側を見る主体側なのか、それとも「窓」の内側にいて外から見られる、または外にいて内側から見られる客体側なのかについて注意深くならなければならない。また、このとき「窓」は開かれている(外とつながっている状態)のか、閉ざされている(外とつながっていない状態)のか、閉ざされていてかつ外と中では視界が遮られているのか、など多様なパターンがあり得る。

 この視点に留意しつつ、下の表に分類を行った。分類は私の直観に基づいて行ったにすぎないので、別の人が同じ作業をすれば別の結果になることもあり得る。数が多いため、見落としてしまっている曲もあるかもしれないので、気づいた方がいらっしゃったら教えていただけると嬉しい。

【表:「窓」が登場する曲とその状況】 

曲名 フレーズ 主客 窓の状況 備考
死に物狂いのカゲロウを見ていた ピカピカ光る愉快な顔の模様が浮かんだボールがポタポタ生まれ落ちては心の窓ガラスたたいている 中にいて外から叩かれる  
ニノウデの世界 窓から顔出して笑ってばかりいたらこうなった 中から外を見ている この後窓から落ちる
鈴虫を飼う 色のない窓をながめつつもう一度会いたいな 外から中を見ている  
田舎の生活 さよならさよなら窓の外の君にさよなら言わなきゃ 中から外を見ている 不明  
アパート 一人きりさ窓の外は朝だよ壊れた季節の中で 中から外を見ている 不明  
日なたの窓に憧れて ・君に触れたい君に触れたい日なたの窓で
日なたの窓に憧れてたんだ
外から中に侵入したい  
サンシャイン すりガラスの窓をあけた時によみがえる埃の粒たちを動かずに見ていたい 中から外の光を使って
中を見ている
閉→開  
あじさい通り でもあの娘だけは光の粒をちょっとわけてくれた明日の窓で 外から中を見ている 不明 「窓」と「時間」の接合
ロビンソン いつもの交差点で見上げた丸い窓はうす汚れてる 外から中を見ている  
グラスホッパー 桃の香りがして幸せ過ぎる窓から投げ捨てたハイヒール 中から外に投げる  
流れ星 流れ星流れ星本当の神様が同じ顔で僕の窓辺に現れても 中から外を見ている  
心の底から すすめ!まだまだ明日をあきらめないできっとどこかで窓を開けて待ってる 外から中だが場所が
わからない
 
ワタリ 電車の窓から見かけた快楽 外の窓から中の窓を
見ている
動いている「窓」
会いに行くよ 君が住む街窓から窓へ見えない鳩解き放つ 中の窓から別の中の窓へ 「窓」をつなぐ「鳩」
何も無かったよ巡り合えた理由などやっと始まる窓辺から飛び立つ 中から外に移動する  
聞かせてよ 蝶の羽が起こすくらいの弱い風受けて小さすぎる窓から抜け出せる時が来る 中から外に移動する 「窓」の大きさが体感的に変化
モニャモニャ やがて雨上がり虹が出るかも小窓覗こう 中から外を見ている  

 

 表からわかるように、歌詞での「窓」の使われ方は多様であり、当然ながらその意味も曲によって異なり、一意に別の単語で翻訳できるものではない。「窓」そのものの形質は、よくある普通の窓と思われるものもあれば、「色のない窓」や「すりガラスの窓」など、存在はしているものの中と外が遮蔽されていると思われるものもあるし、「きっとどこかで窓を開けて待ってる」のように場所が明らかでない場合や、「明日の窓」のように「窓」が時間をつなぐ概念として登場する場合もある。

 「ワタリ」のような「無常感」の観点では、「ニノウデの世界」ではこのあと「窓」から落ちてしまうことから「死」を連想するし、「グラスホッパー」の「桃の香りがして幸せ過ぎる窓」からは「セックス」を連想する。また、「流れ星」の「窓」は「神様(=人間を超越した意力を持つ存在)」との接点として位置づけられており、少なくともこれらの曲の「窓」は比較的わかりやすく「無常感」に近いものであると考えていいように思える。

 今回は検討の対象に含めなかったが、「日なたの窓に憧れて」や「モニャモニャ」の「窓」「窓」が通す「光」の意味(強さや時間帯、天候)にも注目すべきかもしれない。本来であれば曲ごとに個別に分析を行いたいところだが、これをやろうとすると卒業論文よりも多い文字数が必要となってしまうことは確実であるので、今回はこのあたりでお開きとしたい。

 これを読んでくださった皆さんも、上の表やプレイリストから各曲の「窓」がどんな意味を持つのかを考えてみるときっと楽しいのではないかと思う(もちろん「窓」にこだわらず、「神様」などのように他の曲によく出てくる別のフレーズでも同じことだ)。その結果、新たな視点を発見された場合は、ぜひコメントとしてシェアしていただけるとこの上ない幸せである。今後発表される曲でも、もっともっと多くの「窓」を通して、未知の世界と遭遇できることが楽しみでならない。