崇められる肉

 Twitterにきわどい写真をアップする女の子と、彼女を取り囲むフォロワーたちを観察するのが好きだ。いうなれば彼女は公園でパンをちぎってなげる少女で、フォロワーたちはそれに群がってくるハトだ。暇な私はその様子を少し離れたベンチから眺めている。ぼんやりと眺めていると、より多くのハトを集めるためにはいくつかのコツがあるのだということがわかってくる。例えばハトが好むパンを持って来たりだとか、ハトの注意を引くようにそれを投げるだとか、だいたいそんな具合だ。ただ、彼女がどうやってそのコツを身に着けているのかということは、毎日眺めていてもなかなかわからないし、何か天性のものがあるのかもしれない。この点については日を改めて考えよう。

 言うまでもなく、パンとは肉のメタファーだ。すでに聖なる存在であったキリストがパンを自らのからだに移したのとはやや異なり、彼女は自らのからだを写してアップするというその行為自体によって神格化される。そしてフォロワーたちは、彼女を崇めながらそれを拝領する。その先にあるのは、彼女の存在が無限に肯定された世界だ。その日あったことを報告すればみんなが面白いと言ってくれるし、クッキーでも焼こうものなら、彼女はまち一番の洋菓子屋さんのパティシエになる。誰しもそんな経験を一度はしてみたいと思うだろう。そうなるための手段としてきわどい写真を撮り続けることを下品だと思う人も少なくないだろうが、私はそれを非難するつもりは毛頭ない。それも彼女たちが自己肯定感を高めるための生存戦略だ。

 だが、ひとつ確認しておかなければならないのは、あくまでそれは虚構だということだ。ある少女は、フォロワーとの会話の中で「○○くんは性欲とかぜんぜんなさそうだよね」と言った。そんなはずがあるわけはない。彼が少女をフォローしているのは、少女が日がな切り売りする彼女自身のからだを消費したいと思うからに他ならないはずだ。彼は下心を隠して少女に近づこうとしているに過ぎない。ほかにもそういう男はたくさんいると思うが、たまたま彼がそれに成功したというだけの話だ。当然、少女のほうだってそんなことは百も承知で、互いに了解したうえでコミュニケーションを楽しんでいるのだから、そこにはどうしても空虚さがつきまとう。