夢と憑依は似ている

  夢を見た。私は大学の小さなゼミ室に座っていて、隣には男子学生がもうひとり座っていた。しばらくすると部屋に教授が入ってきた。教授は私が学生の頃実際に授業を受けていた人物で、南インドをフィールドとする人類学者で、ヒンドゥー寺院のそばに住む不可触民の老婆に亡くなった彼女の先祖が憑依する様子について説明したあと、近代化が進む中で現地の若い人たちが憑依という現象の存在を否定するようになっていることなど現代的な文脈との関わりについて話してくれた。当然だが私は憑依が起きる現場を見たことなど一度もないので、若者たちと同じく本当にそんなものが存在するのか、ただの老婆のハッタリではないのかという疑念を抱いた。教授は人間の精神の深層についてもっとよく考えるようにとだけ言ってこの話を終わらせた(※憑依という言葉の意味がわからない方は、要するにイタコのことだと思ってもらえればだいたい合っている)。

 話のあと、教授は私たちに対して、君たちはどのような論文を書きたいのだと問うた。先に答えたのはもうひとりの学生だが、教授にとってはあまりピンと来なかったようだ。続いて私の番になったが、何も考えておらず咄嗟に口から出たのが「誰かに理解されるよりも、よくわからないけれど面白いと思われるようなものを書きたい」という答えだった。読み手に理解できない論文など価値を持たないことは明白で、この答えは答えになっていないに違いなかった。だが教授は頷いたあとで、「自分が好きなことで面白いと思われなさい」と言って部屋から出ていった。それでゼミが終わり、この夢も終わった。

 この教授は私の指導教官ではなかったし、そもそも所属していた学部も違ったが、今でも不思議なことに時々夢に出てきて助言をくれる(毎回違うシチュエーションなのだが、助言の内容はいつも同じで、実際に言われたことだ)。今ではもう学生ではないし、論文を書くこともない。けれども、労働者として必ずしも自分が好きなことではないことで日々をやり過ごしている中で、いつか自分の好きなことをして、それが他人に理解されることでなくとも、それで生きてやろうというという気持ちだけは捨てないようにしたいと思う。今回はいつもの夢よりも鮮明だったので、ここに書き留めておく。

春の洞窟

週末は好きなバンドのライブに行った。彼らはMCの最中に、このツアーのモチーフは春の洞窟で、皆はたくさんの花が咲いている洞窟の中へと迷い込み、そこでいい感じの音楽が流れてくるのを聴くことになるんだと言っていた。私は暗いライブハウスの中、ひとりでジーマを飲みながら音の波に身を委ねた。

彼らは曲の合間、我々に向かってひとつずつしっかりと言葉を選びながら、自分たちが作る音楽に込めた想いを語る。1年前に初めて観た時、彼らの発する言葉はもっと軽かったのだが、そのせいか思わぬところで誤解されることもあり、去年はそれで相当苦労したようだ。それとは反対に、演奏の方は以前よりも固さが取れたようで、だいぶ余裕が出てきたように感じられた。私も生まれ変わったらシティポップを作りたくなった。

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その前の週末には桜を見に車を走らせた。わざわざ桜を見に行くなんて俗っぽいなとも思うのだが、今住んでいる場所が終の住処ではないだろうし、もしかしたら来年はここで桜が咲くのを見ることはないかもしれない。季節に応じて場所を消費するためには、与えられたチャンスはそう多くない。そういうわけで、県内の桜の名所と呼ばれる場所を1日で6ヶ所ほど廻って写真を撮り、流石にもう十分だと思ったところで帰ってきた。1年の長さに対して桜の季節はあまりに短い。

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 この2度の週末の間に年度が変わり、労働者になって3年目の年を迎えた。仕事が好きとか嫌いとか、大変だとか楽だとかそういうこととは関係なく、労働に時間の大半を捧げること自体に対してどうしても割り切れないものがある。それは仕事を仕事と思いすぎだからだよなんてことを言われたこともあるが、未だに仕事は仕事であってそれが人生ではないだろうと思ってしまう。だとしたら人生の中で何をすれば満足なのかと問われると、それはそれで答えが出ない。これに答えるにはもう少し時間が必要だろうと思う。

労働者としての生活は狭くて暗くて一寸先も見えない洞窟の中を彷徨うような感覚だと思うことがある。だが、その洞窟の中から抜け出せなくても、例えば軽妙な音楽が流れてきたり、桜の花が咲いていたりということもあるから、今のところはどうにかそれで生きていけている。欲を言えばそこに灯火のひとつでもあるとさらによいのだが。

二日酔い

 酒を多量に飲むと眠りが浅く、いつもより1時間ほど早く目が覚める。そうすると、シャワーを浴びてから朝食をとり、ゆっくりとした朝の時間を過ごすことができるので、毎日ギリギリに起きるのではなくいつもこのリズムで生活するべきだと思う。今日もそんなことを考えながら家を出ると雨上がりのせいかやけに街が明るく鮮やかに見えた。久しぶりに空に虹が架かっているのを見た。深酒した翌日は頭が冴えていると感じるが、それは大きな間違いであり、実際に仕事に取り掛かるととどうにも頭がまわらない。電話を取っても相手が言うことを適切に切り返せないし、文章を書こうとしてもなかなかまとまらない。だんだん頭がぼーっとしてきて、ここではじめて二日酔いで胃がむかついていることに気がつく。トイレに行って深呼吸し、自分はダメな大人になってしまったものだと数分間自己嫌悪に陥ったあと、席に戻ってなんとか仕事を進めようとして時計を見ると、もう正午になっていたなどというのはよくあることだ。労働者になってから学生の頃よりも酒に弱くなったと感じるが、それは仕事で神経をすり減らしたあとで飲酒をするからなのではないかと思う。とりあえず痛風にだけはなりたくない。

 

2年前の今頃の日記その7 記憶が曖昧になりつつある

 朝、ホテルを出て昨日乗り合いワゴンに乗った場所へと向かう。この街には菜の花畑の名所がもう1ヶ所あり、そこに向かうためだ。そこへは乗り合いワゴンではなく、中型のバスが出ていた。しばらく乗っていると車窓に菜の花畑が見えてきたので、車掌をしていた10歳くらいの男の子に運賃を渡して途中下車する。このあたりの車はワゴンでもバスでも土まみれだった。

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 到着したのは金鶏峰という場所で、一面の菜の花畑が広がっており、ところどころに円錐形の山がボコボコと生えていた。中国国内から訪れる観光客も多く、畑の脇には売店がいくつもあって、あぜ道を牛車に乗って歩くこともできた。少し離れた寺院に展望台があり、登ってしばらく眼下を眺める。

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 このままバスに乗って引き返してもよかったが、地球の歩き方によるとそう遠くないところに滝があるというので見に行こうと思い、さらに先へ進むバスに乗った。バスの終着は板橋(バンジャオ)という街だった。この約1ヶ月後に私は東京の板橋区へ引っ越すことになるのだが、それを知ったのはまだ半月先のことだった。

 この板橋から乗り合いワゴンに乗り換えて滝に向かえるようだったが、ワゴンの溜まり場を探しても滝まで行けそうな車は見当たらなかった。タクシーも見当たらなかったので潔く諦め、何もない街中をしばらく歩いてから折り返した。バンジャオも板橋区も、ただ人が住むためだけの機能しか持たないという点ではそう大差ない。

 バスターミナルまで戻り、昆明に向かうバスのチケットを買う。指定されたバスの時間まで3時間ほどあったのでふたたび羅平の街を歩く。中華料理以外のものが恋しくなったのでハンバーガー屋でチキンカツバーガーを食べた。帰りのバスの中では映画が流れていたので眺める。この時の映画の内容を思い出そうとするも、2年経った今ではよく思い出せない。日本映画なら少ないキーワードでネット上を探すこともできようが、中国映画となるとそうもいかないので、永久に思い出すことはできないのだろう。確か、主人公の女性が空から降ってきた記憶喪失の男を助けて共同生活を始めるがしばらくして男を追い出してしまい、後で実は男に好意を持っていたことに気づいて彼を探そうとする、とかそんなような話だったと思う。

 昆明ではゲストハウスを予約していたので、都会を歩きながら探す。ゲストハウスが入居するビルを探すことはそう難しくなかったが、ビルの入口が見つからない。15分ほど彷徨ってもわからなかったので警備員に聞いた所、裏手にある小さなドアを開けてくれた。20階くらいある建物に入居する宿泊施設の入り口が従業員通路のような裏口だとはよもや思わなかった。難易度が高い。チェックインした後何かしら食べに外へ出たような気もするが、思い出せないし写真もないので何も食べなかったかもしれない。2年も前のことを思い出して旅行記を書こうとすると、だんだん記憶が曖昧になっていくのを実感させられる。

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2年前の今頃の日記その6 菜の花畑にて

 早朝、列車は雲南省最大の都市昆明に到着した。駅を出ると人や車でごったがえしていて、ここはこれまで滞在した古都とは全く違う場所なのだと気がついた。昆明は日本ではほとんど耳にすることがない都市だが、ここには600万人もの人が暮らしている。昆明駅では2014年には新疆ウイグル自治区の独立を叫ぶ勢力によるテロが発生しており、そのせいか地下鉄に乗る際には空港と同じボディチェックがあって、そこで持っていたハサミを没収されてしまった。ハサミ1本を持って地下鉄でテロ行為を行う者がいるとは思えないが、起きてしまったことの傷痕は深いようだった。

 地下鉄と路線バスを乗り継いで長距離バスターミナルへと向かい、そこから郊外へと向かうバスに乗り込んだ。4時間ほどで目的地の羅平という街に到着した。羅平はおそらく中国の田舎にはどこにでもあるような地方都市で、あまり綺麗ではない商店がいくつも並んでいて、その背後には巷で言われている不動産バブルなのか、都市の規模に不釣り合いな高いマンションがいくつも建設されていた。しばらく歩いてネットで予約していた宿にチェックインしたが、コピーを取るからとパスポートと免許証を預けさせられた。自分の身分を保証しているものを取られると、異国にいる我が身が宙ぶらりんになった気がした。

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 この街に来たのは世界最大と言われる菜の花畑を見るためだった。以前この地を旅行した人のブログでは、菜の花畑に行く乗合いバンは百貨店の前から出ることになっていたが、そこに行っても全く見当たらなかった。しばらく周りを歩いても見つかりそうな気配がなかったので駄目元で路線バスに乗って駅まで向かうと、バンはそこから出ていた。乗り合いバンは5~7人乗り程度のワゴン車で、バスと違って人がある程度集まる度に出発する。利用するのはほとんど地元の人たちだ。彼らは停留所もないようなところ(一応大体の場所は決まっているようだった)で降りていき、終点まで乗ったのは私のほかにもう1人だけだった。

 バンを降りた場所は崖の上にあり、端まで行くとそこから菜の花畑が見下ろせた。これまで生きてきた中で最も黄色い景色だった。ここは牛街螺田というところで、棚田の裏作で菜の花を栽培しているそうだ。だから黄色も平面ではなく、渦巻いた形で広がっていた。このような景色を日本で見ることはおそらく不可能で、中国語も話せない自分がひとりでこんな場所までたどり着けたことを思い返し、小さく拳を握った。

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 ところが、カメラで写真を撮りながらしばらく歩いていると、なんだか聞き慣れた言葉が聞こえてきた。あたりを見回すと、日本語を話す人々が何人もいた。どうやら彼らは中高年向け旅行商品を企画している有名な旅行会社のツアーで来ているようだった。彼らはおそらく高いお金を払って、貸切のバスで観光地を周り、安全なホテルで中華料理を食べているのだろう。そう考えると、中国の辺境の地で日本人に会ったと言うのに、同じ場所に至るまでのプロセスが違いすぎて不思議と全く親近感が沸かなかった。彼らの旅にはお金がかかりすぎるし、私の旅には手間がかかりすぎる。

 帰りのバンに乗っている途中、車は菜の花畑の真ん中で停まった。不思議なところで降りる人もいるのだなと思っていると、私も降りるように促された。どうやら景色が綺麗だからしばらく見て行けと言っているようだった。私の手間がかかる旅にはガイドがいないから、この粋な計らいはありがたいものだった。

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 一面の菜の花畑をしばらく堪能した後、ふたたびバンとバスを乗り継いで宿に戻った。宿に戻ると、主人がパスポートと免許証を返してくれたので、夜は安心して眠ることができた。

エモいと思う瞬間について考えてみた

 これまで若者言葉のエモいという言葉を使ったことは一度もないし、そもそもエモいという言葉の意味をよく知らない。ただ、中途半端にエモはエモーショナルの略だということは知っていて、何かを感じたときに「感情を動かされる」なんて感想を言うなんておかしなことだなあと思う。感情を表現する言葉なんてたくさんあるのに。

 一方で、若者言葉を理解できないということは早くも老いに片足を突っ込んでしまっているようなものだという思いもあるから、遅ばせながら、このあたりで自分の中でエモいという言葉で言い表すのが妥当な感覚を10個ほど探してみたいと思う。エモいという言葉の定義は下の記事を参考にして、「うまく説明できないけれどなんかいい」と考えることにした。

独身を幸せにする「エモい」という感情の正体 | ソロモンの時代―結婚しない人々の実像― | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

○エモいと感じる事象たち

①一人旅をしている最中に訪れた映画館から、映画を見終わって出る時。周囲から隔絶された箱の中で映画(=非日常的なもの)を見て感傷的な気分になり、そこから外に出ると知らない街の景色(=映画と同様に非日常的なもの)が広がっており、非日常的な出来事の連鎖に頭の整理がつかずにクラクラするような、それでいて心地よい感覚。

 

②深夜のローカル線に乗っている時。気がつくとあたりは暗く、民家の灯りもほとんど見当たらない。汽車は乗客もまばらに終着駅に向かって走る。窓に映るのは自分の顔。これについては前回のブログにも書いた。これはエモいという感情なんだろうと思う。

 

③海に沈む夕日。空は茜色、日没が近づくに連れて赤い太陽がだんだん下に落ちてきて、大きくなってくる。太陽が半分ほど沈むと、ちょうど海に反射して丸い形になる。沈みきったあとはだんだん茜色の面積が減ってきて、これから夜が訪れるんだということがわかる。帰り道はもう夕闇の中。夕飯のことを考え始める。

 

オセアニアの南の島に行った時に乗ったボート。公園の池で漕ぐようなボートにモーターを付けて、簡単なジャケットだけ羽織って乗り込んだ。目的地は15kmほど離れた別の島で、その間ボートは全速力で大海原を横切った。波が来るたびボートは文字通り飛び、何度も振り落とされそうになった。最初はそれが怖かったが、そのうちなんだかおかしくなってきて笑いながら叫んだ。

 

⑤中国の焼豆腐屋で豆腐を食べていた時、店主の老爺から酒を進められ一緒に飲んだ時。焼酎のような強い酒を原酒のまま飲まされ、強さに驚くと老爺は笑っていた。中国語は一切わからなかったが、笑いながら何杯か飲んだ。ほろ酔いでホステルに帰った。

 

⑥中学生の頃、部屋の電気を消して親にバレないように隠れて見ていた深夜アニメ(少しエロチックで、それほど知名度のないもの)の主題歌をふと大人になってから聴いた時の感覚。当時は恋愛などしたことがなかったから、これが思春期の思い出。

 

⑦好きだった異性と電話して夜明けを迎えた時のこと。当時は寮に住んでいて、その内線電話で話していた。行こうと思えばすぐに行って話せる距離だったが、そんな関係性でもないし度胸もなかったから、電話で話し続けた。どこまでも会話が終わらないということの悦びを知った夜だった。

 

⑧受験が終わった日、就職活動が終わった日、論文を提出した日など、抑圧から開放され未来が明るく見えた日のこと。

 

⑨ロックフェスで昼間からビールを飲んでいる時。屋外で風が心地よい日なら尚更。

 

⑩情緒的な気分になる楽曲を聞いている時。2017年のエモい楽曲は以下の5曲。

Spitz/1987→

小沢健二/流動体について

・Nulbarich/In Your Pocket

・Yogee New Waves/HOW DO YOU FEEL?

・スカート/静かな夜がいい

 

こんなところでしょうか。思ったよりも考えるのに時間がかかってしまいました。みなさんがエモいと思う瞬間についても教えていただければ楽しいです。

ローカル線に乗って

 学生時代、私がひとりで行く旅は全て日本の、それもほとんどの場合は田舎を訪れるようなものだった。いくつか行きたい場所をリストアップして、青春18きっぷで何泊かかけてそれらを結んで回る。当然結んだ点と点の間にもどこかしら魅力的な場所があるから、そこにも立ち寄る。目的地になる場所は温泉や史跡、伝建地区、鉱山や鍾乳洞などが多い。特に何もない漁村や農村に行くこともある。時間はあるが金はないので、長く旅を続けるために宿泊施設にはこだわらずにできるだけ安いところを選ぶ。食事は1日1回だけ贅沢をして、ほかの2食は適当なパンやおにぎりで済ます、とだいたいこのような具合だった。

 ところで、ローカル線にばかり乗って旅をしていると、どうしても移動にかける時間が長くなる。そうなると、車窓を眺めるか、持ってきた文庫本を読むか、寝てしまうかくらいしか選択肢がなくなる。しかし後から振り返ってみると、訪れた場所と同じくらいそのような時間のことも案外覚えているものだ。

 山口の萩から島根の出雲まで日本海沿いに走る汽車に乗ったときのことだ。この道中には益田、浜田、江津、大田と4つのまちがあるが、それ以外はほぼ山の中を走る。しばらく車窓を眺めていると、山口と島根の県境あたりからトンネルが多くなる。トンネルを抜けると山の下には小さな浜が現れる。浜を見下ろすと、山の方から浜の中心に向かって1本の川が流れていて、それにしたがって三角州が形成されているのがわかる。傾斜がきつい山際は段々畑になっているが、海の近くには20~30軒ほどの家が、車も通れないほどびっしりと軒を連ねているのが見える。漁村が見えると駅があって汽車が停まり、出発するとすぐにまたトンネルの中に入る。トンネルを抜けるとまた漁村があり、ああそろそろ駅だなと気がつく。それを繰り返しながら汽車は進んでいく。だが、たまに漁村が見えても駅がない場合もある。そうするとひとつの疑問が浮かぶ。この漁村に住んでいる人々は、一体どうやって移動するのか、と。今では線路とほぼ並走するように国道が走っているから、そこまで車で登ってしまえばどこへでも行けるだろう。しかしここに人が住むようになったのはまさか国道ができた後ではあるまい。他の漁村とてそれは同じことで、道路が整備されたり鉄道が通ったりするよりも前からそこは既に漁村であったに違いない。そうすると、移動手段は自ずと限られてくる。舟だ。舟しかない。それも今ならモーターがあるが、ずっと昔は手漕ぎの舟だったはずだ。ここに住む人々は、何か行事があれば、他の浜やもっとのその先まで、陸ではなく海の上を移動して暮らしていたはずだ。それぞれの浜は独立しているが、人々は舟で行き来をしていたはずで、そうすると一体どこの浜が最もプレゼンスが高いのか、浜の間に権利をめぐる争いなどはなかったのか、祭礼は合同で行っていたのか、など新たな疑問が次々と浮かんでくる。そうしたことは、そのあたりの図書館で民俗史を読めばすぐにわかるはずだ。私はいっそのこと何もない漁村の駅で汽車を降りて確かめてみようかと考えたが、なにしろ本数の少ない路線だったから、そのまま次の目的地へと向かった。こんなことを考えるのがローカル線での旅の醍醐味だと思う。

 また別の時の話だ。私は岩手の盛岡から青森へと向かおうとしていた。盛岡は都会だから、列車が出発した19時台には会社や学校帰りの客が多く乗っていた。だが30分も乗っていると車内は閑散としてきて、窓の外の灯りも次第に減っていった。私はしばしうたた寝をしていて、ふと目を覚ますと汽車は山の中を走っており、既に車内に人影はなかった。窓の外は暗闇で、私の顔だけが映る。このようなときは、世界に自分だけしかいないような気分になって、とても心細くなる。それでも汽車がぎゅいんと力強い唸りを上げて峠を登る音を聞くと、実は強いものに守られているのではないかと思い直して少し元気になる。この汽車は私が行きたい目的地までは行かないもので、その後の時間にはもう後続の汽車はなかった。それで私は終着駅の少し前の無人駅で汽車を降りた。ホームから汽車が過ぎ去り、小さくなっていく赤いテールライトを眺めながら、今度こそ本当に自分はひとりぼっちになったと思った。ただ虫の声が鳴くばかりのホームで、寂寞の思いに駆られてうっかり涙を流すところだった。

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