正しく生きようとする人々の闇

  テレビで外国人技能実習生が劣悪な待遇で働かされていることを暴露した番組が放送された。ネットでは放送中から当該企業がどこであるのかを特定しようとする人々が出現し、その結果当該企業とは異なる企業に対して誹謗中傷が浴びせられてしまった。テレビ局は事態の収束を図るため、「名前の挙がった企業は当該企業ではない」という趣旨のツイートを投稿した。このツイートには「当該企業の名前を公表すべき」「風評被害が起こってしまったのはテレビ局の責任であり謝罪すべき」というようなリプライが多数投稿された。番組は特定の企業を叩くことを目的としていたものでもなければ、特定の企業がどこであるのかをミスリードするような内容であったわけでもなく、一部の人々が憶測で誤った企業を特定しそれが拡散した結果として今回の騒動になったわけだが、それでも悪いのは誤った企業を叩いた人々ではなくテレビ局らしい。

 ここ1~2年くらいの間、何かの事件が起こると今回のような無関係の会社や個人が攻撃されることが増えている印象があり、そんな類の話を聞くたびにやりきれない気持ちになる。攻撃する者は義憤に駆られて手を振り上げるのかもしれないが、振り下ろした拳が無関係な者を傷つけるのだとしたら、その行為はもともと彼らが非難の対象としていた、悪意ある者の善良な市民に対する許容しがたいふるまいと同類のことを、いつのまにか彼ら自身が行ってしまっているとは言えないだろうか?無関係の者に誹謗中傷を行ってしまった人々は、果たして自身の行為に対して、彼らが行った非難と同等以上の厳しい自己批判を行っているのだろうか?

 また、それ以前に、非難の対象となる者を間違えていなかったとしても、直接的には無関係である我々に批判の域を逸脱した誹謗中傷を行う権利などあるのだろうか?いったい何が彼らを誹謗中傷に駆り立てるのだろうか?被害者の境遇を思うと居ても立ってもいられないのだろうか?言葉でそう言ったとしても、ほんとうにそう思っているのか…?

 推測の域を出ないが、他者に対して攻撃的になってしまうのは、結局のところ心の中に「正しく生きよう」という意識があるからなのではないかと思う。窮屈で生き辛い世の中で、我々は他者から後ろ指を指されないように生活している。きちんと並んで満員電車に乗り、何時間も労働し、なけなしの収入から税金やら年金やらNHK受信料やらを払い…。そうであるから、ルールから逸脱するようなことを行う人間に対しては許しがたいと思ってしまうし、ましてやそれが不正が疑われる手段で我々が通常得られないような利得を得ている人間ともなればなおさらのことだ。このような人間の存在を許容することは自らの存在を脅かすことにもなる。「正しく生きている」はずの私が、一部の「正しくない人々」のふるまいによって割を食わなければならない。そんなことはあってはならない。必ず、かの邪智暴虐の王を除かねばならぬ。

 このようにして、閉塞感の中を「正しく生きよう」としている人々、といってもその人々の中のごく一部ではあるが、彼らが「正しくない人々」に対して私刑を与えねば気が済まなくなってしまっているのであれば、彼ら自身の人格が未熟だという点を指摘するよりもまず、これもまた現代社会の抱える病理であると思わなければならないのかもしれない。ほんとうにそうだとするのであれば、なんとまあ世知辛いことであろうか。