負える重荷

クールビズ期間が終わってからジャケットを着て通勤するようになったので、代わりにカバンを持っていくのをやめた。ポケットの中に鍵と財布にスマホとイヤホンと文庫本を入れるのでわりとかさばるが、両手が空くから楽だ。荷物を持って行く場所は目的があって行く場所だけれども、手ぶらで行く場所はふらっと行く場所だという気がして、まさしく肩の荷が軽い。軽いというよりそもそもなくなるのでさらによい。

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友人から、友人の恋人は自分が結婚に向いていないのではないかと考えているために結婚に踏み切れないでいるようだと聞いた。結婚に向いているかいないかという二択を選ぶなら、結婚に向いている人など果たしているのだろうか。ひとりで暮していれば何をするにも自分の気分で決めることができるが、人と一緒に暮らせばなんでも気ままになどというわけにはいかないのだから、簡単なことではない。配偶者だけでなく子供がいればなおさらそうだ。自分の行動を決める基準において、自分自身を不動の一位から引きずり下ろさなければならないのだから不自由さを伴うことは間違いない。他人と生きていくということは、互いが互いの行動を牽制しながら生きていくということなのだろうから、誰しも向いてはいないのではなかろうか。

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私は元来粗暴で性悪な人間だが、年を経ることで獲得してきた理性によってなんとかそれを抑制しているため、周りからは比較的親切で穏やかな人間だと思われることの方が多い。ところが、どうしてもそういう取り繕いが上手くいかないこともあって、頭で思うのは仕方ないにせよ絶対に言葉にすべきではないことをときたま言葉にしてしまう。覆水が盆に返ることはない。荷物がなくとも、誰かに束縛されなくとも、積もる後悔だけは背負いながら生きてゆかねばならない。罪深いことだ。