イリコ

 今年はまだラーメンを食べていないなと思ったら急に食べたくて仕方がなくなったので、金曜日の夜は定時で上がって帰り道とは違う電車に乗った。向かったのは4年くらい前は通勤経路だった場所にあるラーメン屋で、私が知る限りでは日本で一番濃い煮干ラーメンの店だ。開店前から並ぶこと30分、ようやく目の前のカウンターに紅のどんぶりが置かれる。日によって異なる複数の産地のいりこを炊いて作ったスープの色はスープというよりは液体セメントのような濁った灰色をしていて、まずこれをレンゲですくってひとくち飲む。すると口の中に煮干のうまみと苦味が広がる。至福の時。脳内に孤独のグルメでおなじみのエレキのツンドラが流れ、全ての神経は目の前の丼に注がれる。固めの麺も、やわらかな味玉も、太くて甘いチャーシューも、アクセントの生タマネギも、後から注文する和え玉も全てが完成されている。食べ終わった頃、胃の中で小魚が泳ぎ出し始める。
 店を出て銭湯に向かった。家の近くには浴場がないから、たまに銭湯に行きたくなる。この日行ったところははじめて行くところで、思っていたよりも小さかった。壁面には宇宙のモザイク画が描かれている。湯に浸かると小魚になった心地がして、目を閉じて宇宙の中を泳ぎ回る姿を思い浮かべた。宇宙の中を泳いでいたと思ったら、いつの間にか鍋の中に入っているかもしれない。
 銭湯からバスに乗れば意外と家から何駅か隣の駅まで行けるようだった。鉄道路線図だけでは位置感覚を見失ってしまう。バス路線図に詳しくなれば土地の距離感を身体化できるような気がする。
 帰りのバスの中で、来月は連休をもらっていりこの故郷である瀬戸内に行くことを決めた。東京に来てから海が足りない。

8/4雑感

 春に引っ越してから電車に乗って通勤するようになった。片道1時間半ほどかかるのでなかなか遠い。通勤時間にはなるべく本を読むよう心がけており、そこそこのペースで読書するようにしていたが、本を職場で奨励されている通信教育のテキストにした途端、薄めの本であるにも関わらずうんともすんとも進まなくなってしまった。やはり仕事そのものにあまり興味がなく、勉強だと思うとまるでやる気が出ないのだろう。困ったものだ。

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  いろいろな街に蔦屋書店なるものが存在するが、あの空間が嫌いというわけでは全くないのにどうにも苦手意識がある。私もこれまで知らなかった本との偶然の出会いを求めて本屋に行くことはよくあり、そういう意味では蔦屋書店に置いてある本が魅力的だと思うことは少なくないのだが、ざっくりとしたアートとか旅行みたいなあの独特の分類の仕方にどうしても馴染めない。大きな書店や図書館のようにNDCコードに従って整然と分類されている膨大な本の中から、背表紙を睨んで本を探すほうが性に合っているのだろうと思う。

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 手帳を持たなくなって久しい。就職してからというものプライベートの予定が入るのは週末かアフター5に限られ、数カ月先の予定くらいなら記憶できるからわざわざ書き留めて置く必要もない。だが、部屋の整理をしていて何年か前の手帳を読むと、すでに記憶の彼方に飛んでいってしまったような飲み会の記憶が蘇ってくることもある。他方で予定を何も記録していないと、たとえば半年前のある週末に何をしていたか思い出そうとするにはカメラロールを遡るしかない。もしかすると、手帳は未来ではなく過去に向けて書き留めておくためのものなのかもしれない。 

正しく生きようとする人々の闇

  テレビで外国人技能実習生が劣悪な待遇で働かされていることを暴露した番組が放送された。ネットでは放送中から当該企業がどこであるのかを特定しようとする人々が出現し、その結果当該企業とは異なる企業に対して誹謗中傷が浴びせられてしまった。テレビ局は事態の収束を図るため、「名前の挙がった企業は当該企業ではない」という趣旨のツイートを投稿した。このツイートには「当該企業の名前を公表すべき」「風評被害が起こってしまったのはテレビ局の責任であり謝罪すべき」というようなリプライが多数投稿された。番組は特定の企業を叩くことを目的としていたものでもなければ、特定の企業がどこであるのかをミスリードするような内容であったわけでもなく、一部の人々が憶測で誤った企業を特定しそれが拡散した結果として今回の騒動になったわけだが、それでも悪いのは誤った企業を叩いた人々ではなくテレビ局らしい。

 ここ1~2年くらいの間、何かの事件が起こると今回のような無関係の会社や個人が攻撃されることが増えている印象があり、そんな類の話を聞くたびにやりきれない気持ちになる。攻撃する者は義憤に駆られて手を振り上げるのかもしれないが、振り下ろした拳が無関係な者を傷つけるのだとしたら、その行為はもともと彼らが非難の対象としていた、悪意ある者の善良な市民に対する許容しがたいふるまいと同類のことを、いつのまにか彼ら自身が行ってしまっているとは言えないだろうか?無関係の者に誹謗中傷を行ってしまった人々は、果たして自身の行為に対して、彼らが行った非難と同等以上の厳しい自己批判を行っているのだろうか?

 また、それ以前に、非難の対象となる者を間違えていなかったとしても、直接的には無関係である我々に批判の域を逸脱した誹謗中傷を行う権利などあるのだろうか?いったい何が彼らを誹謗中傷に駆り立てるのだろうか?被害者の境遇を思うと居ても立ってもいられないのだろうか?言葉でそう言ったとしても、ほんとうにそう思っているのか…?

 推測の域を出ないが、他者に対して攻撃的になってしまうのは、結局のところ心の中に「正しく生きよう」という意識があるからなのではないかと思う。窮屈で生き辛い世の中で、我々は他者から後ろ指を指されないように生活している。きちんと並んで満員電車に乗り、何時間も労働し、なけなしの収入から税金やら年金やらNHK受信料やらを払い…。そうであるから、ルールから逸脱するようなことを行う人間に対しては許しがたいと思ってしまうし、ましてやそれが不正が疑われる手段で我々が通常得られないような利得を得ている人間ともなればなおさらのことだ。このような人間の存在を許容することは自らの存在を脅かすことにもなる。「正しく生きている」はずの私が、一部の「正しくない人々」のふるまいによって割を食わなければならない。そんなことはあってはならない。必ず、かの邪智暴虐の王を除かねばならぬ。

 このようにして、閉塞感の中を「正しく生きよう」としている人々、といってもその人々の中のごく一部ではあるが、彼らが「正しくない人々」に対して私刑を与えねば気が済まなくなってしまっているのであれば、彼ら自身の人格が未熟だという点を指摘するよりもまず、これもまた現代社会の抱える病理であると思わなければならないのかもしれない。ほんとうにそうだとするのであれば、なんとまあ世知辛いことであろうか。

2018年の邂逅 そのうち忘れてしまうであろう出会いの記録

① 6月 東京

銀座線の向かい側に座っていた就活中の女子学生。これから志望度の高い企業の面接に向かうのかかなり顔が強張っている。それを見ていて、自分が就活生だったときのことを思い出して胸がきゅっとなった。就活でいちばん嫌だったのはオフィス街の中にあって自分の居場所だけがないことだった。街を歩いても、電車に乗っても、カフェに入っても、自分だけがどこにも属さない浮いた存在のように思えた。そのようなとき、誰でもいいから自分がそこに存在するということをただ承認してほしいという気分になった。それにしても彼女の顔が強張っていたので、よっぽど励ましの声でもかけてあげようかという気持ちになったが、びっくりされるだろうと思いとどまった。彼女の顔を二度と見ることはないだろうが、なぜか半年経った今でもたまにそのことが頭に浮かぶ。

 

② 7月 大阪

ライブ帰りになんばの立ち呑み屋に寄った。ここは1月に大阪に来たときに初めて訪れた場所で、酒も料理もおいしかったので再訪した。台風が接近しており土曜の夜だというのに人影もまばらだった。しばらく呑んでいると、若い大将から「前も来られてましたよね」と声を掛けられた。立ち呑み屋ともなれば毎日何十人と入れ替わり立ち替わり客が訪れているはずで、前回訪れたときそこまで話し込んでいたわけでもなかったので、覚えられていたことはかなりの驚きだった。自分が住んでいる場所から遠く離れたところで、互いに名も知らぬ人が存在を知り続けてくれていたということに感動した。それでその日は気分がよくなって深酒してしまい、帰り道信号のボラードに座ってウトウトしていたところを通りすがりのお兄さんに起こしてもらう羽目になった。

 

③ 10月 長崎

長崎くんちを見たあと、長崎特有の異常に急な坂を登って小さなちゃんぽん屋に入った。しばらく待っていると、私よりもあとに入店してオーダーした隣のテーブルに、私よりも先にちゃんぽんが運ばれた。一瞬あれっとは思ったものの別に急いでいるわけでもなかったので特段気にしなかったが、運ばれたのはやはり私のちゃんぽんだったようで、隣のテーブルの人が箸をつけた直後ぐらいのタイミングで店員の方が謝りに飛んできた。隣の人は私が頼んだのと同じものを頼んでいたわけではないらしく、気づかずに食べてしまった隣の人にまで謝られてしまったのでなんだかバツが悪かった。その後しばらくして私のちゃんぽんが運ばれてきたので、待たされた分だけおいしいななどと呑気なことを考えながら食べていたところ、先に食べ終わった隣の人が会計のため席を立っていった。食べ終えたあとで私も会計をしようとすると、隣に座っていた人が私の分の会計まで済ませていたことを店員の方から告げられた。私はちゃんぽんを食べるのに夢中で全く気づかなかったので、隣の人の優しさに心を打たれながらも、礼のひとつもできなかったことに後ろめたさを覚えた。

 

 

太陽の塔

 2018年に訪れた中で最も印象に残った場所は太陽の塔の内部公開で間違いない。太陽の塔の内部は1970年の大阪万博後はずっと閉ざされたままだったが、今春48年ぶりに内部が公開された。私はそれ以降5月、7月と2度大阪を訪れ、2度ともなんとか予約を取って潜入を果たした。

 四半世紀そこそこしか生きていない私にとって、太陽の塔は過去の思い出と現代を架橋するノスタルジックな記号として語られるもの、としてのイメージが強かった。たとえばクレヨンしんちゃんのオトナ帝国の逆襲もそうだし、浦沢直樹20世紀少年とか、重松清のトワイライトとか。だから太陽の塔を見て1970年がどういう時代だったのかを考えることはあっても、そもそも太陽の塔とは何か?といったことについて考える機会は全くなかった。

 そんな私が太陽の塔の内部に入ったのは今年のGWのこと。もともと大阪に行くことが決まっていて、どこに行くか調べている中で太陽の塔の内部公開が始まったことを知った。とはいえ公開予約は何ヶ月も前から始まっており、週末、ましてやGWなど空きがあるはずもなかった。したがって予約を取るのはすぐあきらめたものの、報道公開の写真を見てしまったが最後、行けないとわかっているからこそ行きたくなってしまう。それで毎日何度も予約サイトを確かめ、ついにGW中の予約を取り付けた。確か深夜4時頃ふと目が覚めた時に開いた時だったと思う。そんなこんなで予約を手にし、太陽の塔の下に続く階段を降りることになった。

 受付を済ませ、中に入っていくとまず現れるのが「地底の太陽」。太陽の塔には4つの顔があり、外側のいちばんてっぺんにある金色の顔が「黄金の顔」、正面にあるのが「太陽の顔」、裏側にあるのが「黒い太陽」。そして内部に置かれていたのが「地底の太陽」だ。とはいえ本物の「地底の太陽」は万博以後行方不明になっており、今回展示されたのは復元したものだ。「地底の太陽」の周りは、世界各地から集められてきた仮面などに取り囲まれている。おどろおどろしい音楽が鳴り、プロジェクションマッピングで太陽の顔にさまざまな照明が映し出される。もうこれだけで満足。

 しかし本番はこれから。さらに先へ進むと姿を現すのが「生命の樹」。これは塔の下から上に向かって1本の樹が生えていて、その周りを原生類(鞭毛虫)から哺乳類(クロマニヨン人)へと進化する過程を辿った33種類の生物模型が取り囲むといった展示だ。模型の中には劣化してしまったものもあるため、48年前からあるものと、新しく作り直したものが降り混ざっている。進化の最後にいるのはクロマニヨン人までで、その後の人類の姿はない。

 「生命の樹」は生命の進化を表したものであるが、岡本太郎は「進化=進歩」であるとは考えておらず、「人類の進歩と調和」という万博のスローガンに対する疑問を投げかけている。生命の樹の周りを階段で登りながら最上階まで達したとき、眼下を眺めると我々がどのようなルーツを辿って今ここに存在しているのかについて考えさせられる。それは1970年という多くの人々が楽観的に生きていたとされる時代(本当にそうだったのかどうかは私にはよくわからない)においてもそうだし、それから48年が経過したあと再びこの場所に立つ我々にとっても同じことだ。

 最近、『太陽の塔』の映画が公開されたので見に行ってきた。この映画は48年前に建てられた太陽の塔について、あるいは岡本太郎という芸術家について様々な知識人が見解を述べる中で、太陽の塔とは何者であるのかについて考えるドキュメンタリー映画だ。そのうえで、万博終了後にもなぜか解体されず、現代社会においてなお生き続ける太陽の塔の存在が我々に何を示唆するのか、といったテーマについて問いかける、という構成になっている。映画自体はまだ公開中なので具体的な内容について言及するのは控えるが、おそらく太陽の塔は未来永劫に残り続け、形ある限り我々に対してメッセージを発し続けるのだろう。
 
 そういったわけで、機会は多くはないが今後もまた大阪を訪れる機会があれば太陽の塔には足を運びたいと思う。これを読まれた方は騙されたと思ってぜひ内部潜入を試みてほしい。土日の予約が埋まっていても、諦めずに何度もサイトにアクセスすればチャンスは少なくないはず。それから、万博記念公園にはほかにも国立民族学博物館もあり、世界各地の民族の暮らしについて知ることができるので、ぜひ併せて訪れてみていただきたい。

受験勉強の思い出

 私は夜型の人間で、勉強や課題をするには夜にならないとどうにもエンジンがかからない。10年近く前の大学受験のときも、流石に学期中はそう夜更かし続きというわけにもいかなかったが、夏休みともなると、毎晩家族が床に就くのを待ってからようやく参考書を開くという有様だった。

 そういう場合、冷蔵庫が唸る音だけが響くひとりきりのリビングで勉強が捗るはずもなく、気がつくと決まって深夜のテレビ番組を流していた。そんな受験生の7月、0時過ぎから流すのにちょうどよかったのが、ツール・ド・フランスだった。

 自転車のロードレースであるツール・ド・フランスは、フランス国内を中心に3週間ほどかけて3,300kmほどの距離を走る過酷なレースだ。8人一組で20チームほどが参加し、毎日ひとつずつのコースを戦う。最も速いタイムで全コースを走破した者にマイヨ・ジョーヌと呼ばれる黄色のジャージ、各ステージのゴール(およびスプリントポイント)をいちばんに通過した回数が最も多い者にマイヨ・ヴェールと呼ばれる緑のジャージ、高低差の激しい山で最も優秀な成績を残した者にマイヨ・グランベールと呼ばれる白地に赤い水玉のジャージ、それから若手で最も優秀な成績の者にはマイヨ・ブランと呼ばれる白地のジャージが与えられる。

 ツール・ド・フランスの魅力はレースそのものもさることながら、画面に映し出されるフランスの風光明媚な風景だ。レースの序盤~中盤にかけては競り合いも(傍から見れば)そこまで激しくなく、木々や町並みがゆるやかに流れていく。ところどころに現れるのがシャトーで、シャトーが映し出されるたびむかし田舎の貴族が住んでいたであろう屋敷の出で立ちに目を奪われる。選手が飲んで捨てた水のボトルは拾った観客がもらえることになっているので、いつの日かフランスの田舎道の沿道に立ってボトルをゲットしてみたいななどと思う。

 もちろんレースそのものからも目が離せない。終盤になると急にレースが動き出すようになり、マイヨ・ヴェールを狙う者たちが前線に飛び出してきて激しい攻防を繰り広げる。毎日ひとつずつレースがあるから、いちばんにゴールする者もその日によって変わるし、距離が長かったり短かかったり、アップダウンがゆるやかだったり激しかったりとさまざまなコースがあるから、たくさんのヒーローが日ごとに誕生する。日程の終盤ともなると、手に汗握りながら毎日の結果を見ることになる。

 そういうわけで、受験生の夏休みには勉強もそこそこに毎夜・レースを観ていたというわけだ。幸いなことにそれでもなんとか大学に行くことができたので、入学と同時にクロスバイクを手に入れたし、第二外国語にフランス語を選んだ(すぐにフランス語は失敗だったと気づいたがもう遅かった)。同時にひとり暮らしを始めたため、それ以降CSでしか放送のないツール・ド・フランスの中継は観られなくなってしまった。

自転車に乗って

 午前中を二日酔いで葬り去ったあと、昼過ぎに自転車屋へと向かった。そこはいつ行っても必ずサチモスが流れている自転車屋で、前週注文していた少しいいクロスバイクを代金と引き換えに受け取った。午後は特に用事もなかったので、せっかくだからと自転車にまたがって走ってみることにした。

 クロスバイクに乗るのは久々だった。学生時代の前半あたりにも乗っていたことがあったが、壊れたり盗まれたりしてしまったのでだいたい4年ぶりだろうか。クロスバイクの速度は流す程度ならだいたい15~20km/hで、この速度で走る乗り物というのはあまりないから、周りの景色の流れ方が新鮮に映る。とはいえ市街地では段差も信号も多くあまりスピードが出せないから、少し離れたところにあるサイクリングロードに行ってみることにした。サイクリングロードは昔は国鉄の路線があったところを舗装したもので、走っているとところどころに駅の跡が残されている。道の両脇には桜が植わっていて、この季節には新緑が眩しい。

 しばらく走っていると、目の前を黒い鳥が横切った。カラスによく似ているが街中のハシブトガラスと比べればだいぶ小さい。それにお腹のところが白くなっている。カササギという鳥だった。このあたりではカササギはカチガラスと呼ばれ、県の鳥にもなっている。見上げると桜の木に巣があって、親鳥が木枝などを集めているところらしかった。もっとじっくりと見たかったので巣の下で10分ばかり帰りを待ってみたが現れない。私がいることで警戒させてしまったのかもしれない。

 サイクリングロードは県境の川で終わった。国鉄の路線はもっと先まで伸びていて、川には赤くてごつい鉄橋が架かっている。この橋は昇開橋という可動橋で、船が通るときには橋の中心部分がクレーンで吊り上げられるようになっている。このあたりは水路が多く、かつては舟運が主な交通手段だったために、このような構造の橋が架けられたそうだ。戦後はノリの養殖が非常に盛んな地域となり、今でも漁師たちの船、といってもノリ漁の小さな船が通るのに橋を上げる必要はないのだが、が盛んに行き来している。鉄橋の下は遊歩道になっていて、私が通ったすぐあとで橋が上がり、その様子を間近に眺めていた。

 県境を超えてさらに先に進んでもよかったが、通ってきたサイクリングロードではない道を通ってこの日は帰ることにした。この近辺は海が近くて土地が低く、高い建物もカントリーエレベーターくらいしかない不思議な地帯だ。どこまでも広がる田んぼには麦が作付されていて、収穫を数週間後に控えており黄金色になりはじめていた。麦秋という季語があることは知っていたが、それがどのような光景なのかはここに引っ越してくる前にはよくわからなかった。麦の収穫はちょうど今週から始まるから、今の時期がまさに麦秋、田が秋のようにキラキラ輝く季節だ。